TOP | 文書類

フッサールの方法とその諸問題

総論

 このレジュメの目的は、エドムント・フッサール(1859−1938)の思想理解と、彼の用いた術語を理解することにある。そのために、まず現象学的還元(phänomenologische Reduktion)に端を発するフッサールの学的態度を一通り示し、そこで出てくる概念の説明を試みる。それから先行思想との関係、フッサールの思想における難点の追求へと進む。ただ、この発表はあくまでも名目が院試対策であることから、その形式、書式は共に一般的なレポートのそれとは異なっていることに注意されたい。

1.フッサールの方法

1-1.主客問題

「主観と客観」あるいは「認識と対象」の問題をどう解明するか、これが現象学(Phänomenologie)の第一の課題である。周知のごとくデカルトは、「神の存在証明」(Beweis des Daseins Gottes)によりこの問題に取り組んだともいえるが、結局のところ神に頼らざるを得なかった。ところがフッサールの時代において存在の基礎づけとして神を持ち出すことはもはやかなわなかった。したがってフッサールはデカルトとは違う、しかしデカルトのように学問全体を絶対的に基礎づけるような土台から始める必要があったのである。

1-2.現象学的還元

 デカルトが「方法的懐疑」(doute méthodiaue)で示したように、「主観」は自分の外に出て「主観」と「客観」の一致を確かめることはできない。かといってデカルトのように神を持ち出すこともできない。するとどうなるか。フッサールは「現象学的還元」という新たな方法を提出する。ここで問題なのは、主観と客観の一致を確証することではなく、これが「疑い得ない」現実であるという妥当(Geltung/Gelten)(確信)がどのようにして生じるかという問題を解くことである。そしてこの問題を解くために、我々はまず「主観」から出発するのである。フッサールの考えた「現象学的還元」の方法は以下のようになる。

  1. 主観と客観の構図を取り払う
  2. 人間は「主観」の中に、ある「疑い得ないもの」を持っており、それを他人と共有せざるを得ないような構造を持っていると考える
  3. ただ、(2)で考えた「疑い得ないもの」の妥当が、単なる思い込み(ドクサ)doxaであってはならないため、このドクサをエポケー(Epoché)する(括弧に入れる/判断を停止する)ことによって一旦取り払ったのと同じ状態になる

1-3.「純粋意識」(reines Bewußtsein)という余剰

 先程の「現象学的還元」で自然的態度(naturalistische Einstellung)にエポケーを施し、ドクサを取り払ったあと、そこには果たして何が残るのだろうか。フッサールによればそれは「純粋意識」であるという。ではこの純粋意識とはいかなるものなのであろうか。

 フッサールのこの「純粋意識」とは、一切のものを疑ってもなおそこに残った唯一確実なものという点において、デカルトのコギト(cogito)と類似するものであるが、ある一点においてまったくその性質を異にしている。というのは、デカルトにおけるコギトとは実在するものとして考えられているが、フッサールのいう「純粋意識」とは人間の経験や世界像一般を可能にする第一の原理という意味であり、それ以上でも以下でもない。したがって、ここでは「純粋意識」が実在するものであるということは含意されていない。

1-4.コギト―コギタチオ(cogitatio)―コギタートゥム(cogitatum)(意識―意識作用―意識内容)

 フッサールは、知覚(Wahrnehmung)と知覚事物それ自体とは一つになって結合されているということはないという。すなわち、私がここに「机がある」と知覚したときの「机」とは、実際そこにある机そのもの全体を知覚したものではないということである。例えば私は机を知覚する。しかし、その机の裏側がどうなっているかまでは知覚しない。つまり、知覚は我々に対して、知覚事物のある一面を様々に異なった相で射映する(Abschattung)(与える)にすぎない。このように、フッサールによれば事物は一定のパースペクティブからしか与えられず、彼はまた、この射映によって現れることを現出(Erscheinung)と呼ぶ。

 ところで我々は、ここに「机がある」と知覚するとき、それを様々に異なった別々の机だとは知覚せずに一つの机であると知覚するであろう。それは、フッサールによればおよそ次のような仕組みになっている。

 我々は机のあらゆる相を知覚する(コギト)。この連続的に与えられる(コギタチオ)机の相を、意識が瞬時に統一して、ここに「一つの机がある」という知覚(コギタートゥム)に至る。我々は「机そのもの」を知覚したかのように感じていても、現実的知覚としては現に意識に与えられているとはいい難い。したがって、この行程には少なからず「ドクサ」が含まれていることに我々は注意せねばならない。

1-5.内在(Immanenz)と超越(Transzendeniuz)

 我々は先に、ここに「机がある」というのは現実的知覚ではなく、意識によって統一された、構成されたものであるということを確認した。ここで内在と超越、すなわち「原的な体験」としての「内在」、「構成された事象経験」としての「超越」という概念に突き当たる。ここで注意されたいのは、フッサールのこの文脈における「超越」とは神やイデアのような何かを超越した事物ではないということである。ここでの「内在」とは「原的な体験」であるがゆえにそれ以上疑うことのできない不可疑性のもの、先所与性のものである。ところが「丸い」「赤い」「光っている」といったものを知覚する際も、それが何か他のものから構成されている、すなわち超越した存在ではないのかという批判があるかもしれない(先構成論的な批判)。ただし、我々は「丸く感じた」、あるいは「赤く」、「光っているように感じた」という感じたことそのものは「ひょっとしたら丸く感じたのではないかもしれない」と疑うことはできない。したがってフッサールの「内在」とは、より厳密には知覚におけるこの不可疑的な感覚体験、人がそのように感じたという初源的な事実性ということになる。

1-6.ノエシス―ノエマ(Noesis―Noema)

 先に我々は、知覚と知覚対象それ自体とは一つになって結合されているものではないということを確認したが、知覚とパースペクティブなものとして現れる知覚事物とは、「意識とはすべて、何ものかについての意識である」という志向性ゆえに切っても切り離せない関係にある。この関係をフッサールは相関関係(Korrelation)と呼ぶ。この相関関係のうち、意識の作用的側面はノエシスと呼ばれ、対象的側面はノエマと呼ばれる。つまりノエシスとは、意識に現れた感覚的ヒュレー(hyle)(素材)に志向的な意味統一を与えてひとつの存在対象の妥当を構成する意識の働きであり、ノエマとはノエシスによって構成された対象性のことである。またこの構成された対象性のことを、志向的相関者という。

1-7.他我(alter ego)から間主観性/相互主観性(Intersubjektivität)まで

 他人とは私と同じく心(Seele)と身体(Leib)を持っており、私ではない主観であると考えられている。このように心と身体を持っており、私と同じように主観を持っているような性格を「他我」と呼ぶ。さらに「間主観性」とは、「他我」も私と同様に唯一同一の世界の存在を妥当しているはずだという、私自身の妥当を意味する。

1-8.根源的呈示/根源的現在化(Präsentation)と間接的呈示/間接的現在化(Appräsentation)

 我々は客観の妥当に際して、現象学的還元という手法を用いた。その手法とは主観と客観の枠組を取り外し、主観から出発するものであった。さて、ここには当然のことながら現象学は独我論に陥るという批判が生まれてくる。それに対してフッサールは独我論の問題、他我の問題を解決すべく、根源的呈示と間接的呈示という概念を持ち出してくる。

 今ここに他我、すなわち私と同じように心と身体を持ち、私とは違った主観の持ち主が存在すると仮定しよう。そのとき我々に、その他我が根源的に与えられ、他我自身の本質が直接的に把握されるならば、他我の本質が私の一要素となってしまい我々は独我論に陥ってしまうのである。つまり根源的呈示により他我を直観することは退けられなければならない。したがって、他我経験には、間接的な志向性(Intentionalität)が働いているとみなさねばならない。それは共に現在化させること(Mitgegenwärtigung)であり、つまりは間接的呈示でなければならないのである。

 では、我々は間接的呈示によってどのようにして他我を妥当するのか。フッサールは類比であるという。この類比は、私がボールペンとシャープペンシルの類似を類比するときのような物質的存在を類比するのとは異なり、他我の類比に至っては我々と同じような身体を持ち、同じように話し、また私とは違うが同じような主観を持っているということを「根源的創造作用」を介することによって、したがって間接的に類比することによって、我々は他我の存在を妥当するのである。今見たように、フッサールによれば、他我の妥当は間接的呈示であり、私の一部として直接的に私の中から出てきたものではない。これがフッサールによる現象学は独我論に陥らないと主張しうる主要な論拠であると考えられる。

1-9.感情移入/自己投入/自己移入(Einfühlung)

 他我の妥当について、もう少し詳しく扱うことにしよう。いま私の知覚野(Wahrnehmungsfeld)に、我々とは違う人が入ってきたとしよう。それは我々の前に単なる物体(Körper)として現れる。ところで、なぜこの物体が我々と同じような主観をもった他我であるということがいえるのか。それは統覚的移し入れ(Übertragung)、すなわち「我々の身体としての物体」と「我々の知覚野に入ってきた物体」との類似性を基礎として、類比化的統覚を為すのである。これがフッサールのいう感情移入、言い換えれば類比統覚による特殊な間接的呈示でなのである。そもそも我々の身体は単なる物体に過ぎない。それを我々は、自己の身体的統覚によって、自己の身体としての物体」と「自己の身体」とを重ね合わせている、いわば統覚(Apperzeption)しているのである。この模型にしたがって、我々は物体として現れた他者の身体を、我々の身体との類似性ゆえに我々とは違う主観をもった他我の身体として統覚する、先ほどと逆の言い方をすれば重ね合わせているのである。この方法により私は、自分の「物体として現れる身体」を「自分の身体」として統覚するのと同じ手法で、「他者の物体として現れた身体」を「一個の身体」として統覚していることになるのである。

1-10.生活世界(Lebenswelt)

 生活世界とはフッサール後期の著作『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』(Die Krisis der europäischen Wissenschaft und die transzendentale Phänomenologie)(以下『危機』とする)における中心的な概念である。これは、中期の著作『純粋現象学及び現象学的哲学理念』(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie)の自然的態度(素朴な世界像)に類似する概念であり、生活世界に関しては、あらゆる意味形成と存在妥当の根源的な地盤として科学的な世界理解に先立った、つねにすでに自明のものとして与えられている世界を意味する。

 いま述べたように、生活世界というのは科学的な世界理解に先立っているにもかかわらず、近代の科学的世界、すなわち生活世界と対置される世界は、学的、理念的な世界こそが客観的世界であるといった具合に本来客観的世界であるはずの生活世界と逆転している。そこにこそ、フッサールはヨーロッパ諸科学の「危機」があるという。

2.フッサール現象学の学的位置付けと諸問題

2-1.記述心理学(deskriptive Psychologie)、志向性

 記述心理学とは、説明心理学(erklärende Psychologie)と対置される心理学上の立場であり、物理化学をモデルにした因果的な説明方法を排除し、心的現象を与えられるがままに記述し分類することを目指すものである。記述心理学は「内的知覚」(innere Wahrnehmung)の明証にもとづく記述によって心的現象の普遍的な構造についてのアプリオリな認識を得ようとするもので、「心理構造学」ともよばれる。ブレンターノはこの立場から心的現象を分類して「表象」(Vorstellung)「判断」(Urteil)「情意活動」(Gemütstätigkeiten)という区分を提出し、また心理的現象の本質的な特徴は「志向性」にあるとした。フッサール現象学は記述心理学から出発し、それを徹底化することによって成立したものである。

2-2. 実証主義批判(Positivisums)

 さて、フッサールが記述心理学から出発していることは今確認したが、当然のことながら彼はそれまでの実証主義に批判を加えることとなる。これまで述べてきたとおり、フッサールは自然的態度そのものを疑い、さらに後期の『危機』においては学的、理念的な科学的世界を疑うのであり、したがってフッサールの視点からは、実証主義のごとくその基礎を科学的知識に置くものは諸原理の原理とはなりえないのである。

2-3.自然的態度と生活世界

 フッサールは後期に入り『危機』の中で生活世界という新しい術語を提出する。この生活世界という術語の意味は先に述べた通りであるが、この点において彼の前期・後期思想において自然的態度という術語を使っていた時期と、後期に至り生活世界という術語持ち出してからの思想的整合性が保たれているのかどうかという問題がある。この問題については他我論とも密接に結びつくものであり、様々に解釈の分かれる問題でもある。したがってこの場においては積極的に答えを導き出すことはしないでおく。

2-4.現象学と解釈学(Hermenutik)

 現象学の根本的な立場は、現象学的還元を通じて自然的態度にまつわるドクサをエポケーにより括弧に入れ、超越論的主観へと至ることである。そこでは日常的な経験からくる様々な思いなし(ドクサ)というものは取り払われ、純粋意識のみが余剰として残る。これに対し解釈学ではテクストの存在、すなわち我々の心の中にあらかじめ書き込まれた日常的なもの、あるいは潜在的に我々の中に潜んでいる文化的影響を考慮する。現象学と解釈学との決定的な違いはここにあると言っていいであろう。

3.補足

 以下の術語はどれも重要なものであるが、内容的紙幅的問題から直接的に取り上げなかったものであり、上記のものと比べて必ずしも重要性がないという意味ではないことに注意されたい。

3-2.フッサールの主要な著作

参考文献

TOP | 文書類

Valid XHTML 1.1! Valid CSS!