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H.シジウィック著、森本誠一訳『功利主義』(1873年)

 本論文を書くにあたって、議論の余地がない命題以外はすべて避けることがわたしの目的であった。それゆえ興味深い問題を多く脇へ残してしまった。また、科学的確実性が得られなさそうな点について独断的に断定することのないよう注意した。もし討論をする目的で存在する学会に対して議論の余地がない一連の命題を提案することが奇妙だと考えられるなら、わたしは次のように主張するだろう。第一に、功利主義に関するほとんどの討論において、議論の重要な点で暗黙のうちに無視されているこういった命題が一つ以上あることにわたしは気づいている。第二に、倫理学や形而上学の命題は、議論の余地がないものとして出されるため議論を引き起こしそうにない、というわけではないことを幅広い経験が示している。

 わたしが功利主義ということで意味しているのは、任意の状況で外的または客観的に正しい行為とは、可能な限り最大の幸福を利害の影響を被る人のうちで可能な限り多くの人に産み出しそうな行為であるという倫理学理論である。

 この言明はまだ十分に限定的なものではないが、それがどんなに曖昧であったとしても、以下の観察の過程で取り除かれるだろう(と希望する)。

 まず、この学説と、「功利主義的」という用語が充てられてきたが上で定義されたような功利主義とは必然的なつながりのない、まったく異なった性質の学説とを区別しよう。ただし、中にはある種の自然的類似性を持ったものもある。

 I.先の定義にしたがえば、功利主義とは倫理学説であり、心理学説ではない。つまり、どうあるかについての理論ではなく、どうあるべきかについての理論である。それゆえ、より厳密には、次のような心理学理論は含まない。(1)人間の行為において、行為者はそれぞれ自分自身の個人的な幸福もしくは快楽を普遍的に追求するか通常は追求するという主張。これは、例えば外的行為の正不正に関する、どんな倫理学理論とも明らかに両立する。というのも、アリストテレスが言うように、有徳な人についてのわたしたちの観念には、有徳な人が為すべきだと考えていることを自ら行う際に快楽を得るという特徴のものが含まれているからだ。そして、有徳な人はそれを義務と認識するために自らの義務を行うと言うべきなのか、あるいはそれを為す際に道徳的な快楽を見出すためにそれを行うと言うべきなのかという問題は、いくつかの視点から見てこの問題にどんな重要性があるとしても、どのような行為を彼は追及すべきなのかという問題とは少なくとも必然的なつながりがない。すべての人は快楽を追及するという心理学的な一般化から、快楽はすべての人が追求すべきものであるという倫理学原理への自然な移行があると言われるかもしれない。だが第一に、この移行はせいぜい自然的であって、論理的ないし必然的ではない。第二に、こうしてわたしたちが至る倫理的結論は、そもそも利己主義や利己主義的快楽主義(これらの主義によれば行為者の行為の究極目的は行為者自身の幸福である)の結論であって、わたしが定義したような功利主義の結論ではない。だれしも自分自身の幸福を実際に追求しているという事実から、即座で明白な推論として、人は他人の幸福を追求すべきだと結論づけることができないのは明らかだ。

 また、(2)倫理学固有の理論としての功利主義は、(倫理的心理主義と呼ばれることもあるようなものに属する)学説、すなわち道徳感情は非道徳的な快苦の経験に由来するという学説とも関係ない。

 というのは、(a)これらの道徳感情はいまや(わたしたちの現在の意識という事実として考えられ、)独立した衝動であり、道徳感情が生じてくるより根源的な衝動としばしば衝突し、それに従ったり抵抗したりする結果として生じるそれ自身固有の快苦を有している。個人の成長や民族の発展における初期の衝動が後の時期に起こった衝動と衝突する場合、初期の衝動を常に優先すべきだという想定は恣意的であるように(それどころか、進歩や発展についてのわたしたちの一般的概念とは反対のものであるように)思われる。とりわけ、前者の衝動がより低次で粗野なものと一般的に考えられている場合にはそう思われる。同様に美術についての快楽は、もっと根源的な感覚や情動から生じるものであり、こういったものについての一種の複雑な反省であるかのように思われる。だが、教養のある人がどうして前者よりも後者を好むべきなのかという理由については考えられていない。

 (b)他方で、わたしたちの道徳感情についてのこの説明がどんなに正しいとしても、道徳感情がわたしたちに強いる行為はなお合理的功利主義の命令と衝突しやすい。というのも、この理論に基づけば、これらの感情は行為の結果についてのごく一部の経験に由来し、まったく不完全な共感や知性によって理解され解釈されてしまっているであろうからである(For these sentiments will have been derived, on this theory, from a very partial experience of the effects of conduct, apprehended and interpreted by very imperfect sympathy and intelligence.)。

 実際(3)、わたしたちの現在の道徳的な好みは、直接的にであれ間接的にであれ、わたしたち自身や他の人びとに非道徳的な快楽をもたらす行為と常に結びついており、道徳的な嫌悪はその逆のものと結びついている、とヒュームに賛成して主張しても、わたしたちがこれらの感情にそのまま従うべきなのか、それともベンサムによる帰結計算によってこれらの感情を置き換えたり支配したりすべきなのかという問題は、依然として未決のままである。それどころかさらに、これらの感情を意識という事実として認識し説明するだけでは、これらの感情そのものについても、(上で定義した)合理的功利主義についても、絶対的で最高の権威を肯定することには必ずしもならない。というのは、これらの衝動は他の衝動と同様に合理的自愛の支配権の下に適切に存在すると主張されるかもしれず、また、わたしたちが自分自身の個人的な幸福をこれらの衝動を満足させることに見出す限り、これらの衝動を満足させることは実際に唯一理に適ったことである、と主張されるかもしれないからである。

II. (わたしの意味での)功利主義――あるいは普遍主義的快楽主義と呼ばれるかもしれないが――は、ちょうどいま言及した利己主義的快楽主義と混同してはならない。実際、これら二つの原理は、個人に(少なくとも明白な)彼自身の利害の犠牲を度々強いるような社会全体の利害に関して(as a regard for the interests of society t large frequently imposes on the individual the (at least apparent) sacrifice of his own interests)、一見したところ(primâ facie)両立しない。

III. わたしが理解する功利主義とは、行為の客観的ないし実質的な正しさを決定するための原理や方法を提供してくれるものである。この正しさと主観的・形式的正しさ、すなわち意図の正しさとの区別や偶然的な分類、また、二つの正しさのうちどちらが内在的により善くより価値があるものなのかという問題は、功利主義によって決定されるものだと考える必要はない。二種類の正しさが、誰かの将来の行為に関して、競合する選択肢としてその人に現れることはありえない。確かに、わたしたちが他人を相手にする際、この二つの正しさは競合する選択肢として現れるかもしれない。というのも、刑罰の恐怖といった非道徳的動機によって、彼らの良心に反するわたしたちが正しいと考えることを彼らにするよう仕向けるべきなのか、またどの程度までそうすべきなのか、という問題が生じるかもしれないからである。だがこの問題は、わたしたちがどんな倫理学理論を採用したとしても、同様の困難を示すように思われる。

 さて、この原理そのものをもう少し詳細に検討してみよう。この原理は正しい行為の究極目的・究極的基準として(as ultimate end and standard of right conduct)「すべての関係者の最大幸福」を、あるいは(一部の関係者の利益は、場合によっては残りの者の利益のために犠牲にしなければならないので)「可能な限り最大多数」の「可能な限り最大の幸福」を提唱する。さて、これらの概念をそれぞれ十分明確なものにするためには、もう少し限定と説明が必要である。まず、「幸福」は「快楽」と同等のものと理解しなければならない。最近では「幸福」は功利主義者からもその論敵からもこのようなものとして常に理解されてきたのではないかと思う。ただし、ギリシアの倫理学上の論争では、これらに対応する概念であるエウダイモニア(eudaimonia)とヘドネー(hedone)の関係について多種多様な見解があった。現在ですら、「幸福」が「快楽」とはまったく違うものだと言明する者が多くいる。だが、こういった人たちは「快楽」という術語を功利主義者よりも狭い意味で使用しているように思われる。功利主義者は「快楽」にあらゆる満足と喜びを含め、したがって最上のものから最低のものまで、それがあるときには維持し続けるように意志をつき動かし、欠けているときには生み出すように意志をつき動かすような、あらゆる種類の感情や意識を含める。このように理解すれば、わたしたちが快楽と呼んでいる一時的な感情の総和ないし一連のそういった感情を指示する(denote)のに幸福が使用される場合を除いて、快楽を幸福から区別することはできない。そこで、功利主義者は世界における好ましい感情あるいは望ましい感情の総和を、それが功利主義者の行為が左右しうる限りで、できるだけ大きくしようと目指すのである。だが、ここでもう一つ限定する必要がある。というのも、わたしたちの行為の多くは自分自身や他人に対して快楽と同様に、苦痛も不可避的に生み出すからだ。そして、苦痛という望ましくないものについての認識は、功利主義者が依拠している快楽という望ましいものについての認識と不可分の付属物であり対応物であるように思われる。実際、功利主義者は常に苦痛を快楽の負の量として扱ってきた。それゆえ厳密に言えば、功利主義的に正しい行為とは、全体として最大量の快楽を生み出す行為のことではなく、苦痛に勝る快楽の最大の余剰である。ここでいう苦痛とは、同じ量の快楽に対して釣り合うと考えられた苦痛のことであり、それゆえ快楽と苦痛とは倫理的計算のために互いに打ち消し合うものである。

 それゆえ、幸福の最大化というちょうどこの概念にはある想定が含まれているのであるが、その重大さや重要性は多少見落とされてきた。その想定とは、あらゆる快楽は互いに、そしてあらゆる苦痛と量的に比較可能であるということである。つまり、あらゆる種類の感情には好ましさや望ましさの点である強度の量、すなわち正負(もしくはゼロ)の量があるということ、また、この量は知ることができるということ、そして以上のことから、それぞれの感情は理想的な尺度でその他の感情と比較考量できるということが想定されている。このことを想定しなければ、幸福の最大化という概念は論理的に不可能である。つまり、量的に通約不可能な要素の総和を「できるだけ多く」しようとするのは、4ポンドのバターから1オンスのチーズを引こうとするのと同様に数学的にばかげている。先ほどの想定が正当化できるかどうか議論するつもりはないが、いずれにしてもこれは経験によって確かめることはできないこと、また、これに対して寄せられる非常にもっともらしい批判は経験的な根拠に基づいていることがある、という点を指摘しておきたい。といのも、確かにわたしたちはみな絶えず快楽を比較し、ある快楽を別の快楽よりも好ましいと言明しているが、様々な心的状態(moods)で同じ比較をして、様々な結果が出てくることにわたしたちはみな気づいているからだ。あるものに起因する喜びをより感じやすい(more susceptible of enjoyment)ときがあれば、別のものに起因する喜びをより感じやすいときもあり、苦痛の感じやすさに関しても同様である。それでは、どうすればわたしたちが常に完全に中立的な心的状態、つまり、あらゆる快楽がそれの持つ真なる快楽主義的価値にしたがって表されるような心的状態であるということを確信できるのだろう。また、そのような心的状態が実際に可能であり、哲学的妄想(philosophical chimaera)ではないとどうすれば分かるのだろう。そしてこういった困難は、様々な人の様々な選好を考慮に入れると増える。例えば、知的快楽と感覚的快楽をめぐる古い論争はどう科学的に決着をつけられるだろうか。知的な人は両方とも試しているのだから、わたしたちは知的な人を信用しなければならないとプラトンやミルが言う場合、この議論は明らかに不適切である。というのも、知的な人が感覚主義者の感覚的快楽と同じ程度にその感覚的快楽を経験できるということを、わたしたちは決して知ることができないからである。実際、そのようなことはできないということが、様々な根拠によって確からしいというのがよくあるからだ。それゆえ、中立的ないし標準的な心的状態においては特定の快苦を過大評価したり過小評価するどのような傾向性から自由であり、他の心的状態では自分がこういった傾向性へと常に陥りがちであることに気づくのであるが、一個人の快楽の比較のために中立的ないし標準的な心的状態をわたしたちが想定しなければならないのとちょうど同じように、功利主義的比較のためにはわたしたちは標準的な人を想定することを要求する。つまり、何らかの種類の快苦に賛成や反対するような何らかの偏向からは自由に、すべての人の快楽を実際にあるものとして思い描くことができるような人を想定するよう求めるのである。繰り返すが、わたしはこれらの想定に反対するようなことを論じているのではない。しかし、道徳に適用された場合、快楽主義は「相対主義」とみなされがちなので、それとは反対に快楽主義的比較が経験によって示すことのできない感情についての好ましさの絶対的基準を必然的に想定するということ、また厳密に適用すれば「相対性原理」は功利主義を論理的に不可能にするだろうということを示すのは重要であるように思われる。

 さて「最大幸福」はこれぐらいにしておき、「最大多数」という概念について考察しよう。第一の問いは、何の数かということである。感覚的存在一般なのか、それとも感覚的動物のうち特定の種類のものを指すのか。どのような選択肢であっても一見したところ恣意的であり非合理的だ。実際、功利主義者は一般に前者の選択肢を採用する。わたしはこの点に注目するが、その主な理由は、先ほど述べた快楽主義的比較の科学的困難さがかなり増すように思われるということにある。実際には、功利主義者はほぼ完全に人間の快楽に限定してきた。わたしは上述の想定に加え、下級動物の快楽が比較的劣るということに関するさらに特別な想定(これも経験的に証明できない)を考えている。だが、注意を人間だけに限定するとしても、「最大多数」という概念はなお全く定まらない。というのも、わたしたちは将来の人間の数にある程度まで影響を及ぼすことができ、功利原理ではこの数をどのように決めるべきなのかという問題が生じるからである。さて、平均的幸福が同じままだとすれば、もちろん多ければ多いほどよい。ところが数の増加は平均的幸福の減少を伴うとか、またその逆であるということをわたしたちが予見するのだとすれば、わたしたちはどうやって[数を]決めたらよいのだろう。功利主義の方法に基づけば、増数によって享受される幸福の量を残りの者が失う幸福の量と比較考量しなければならないというのははっきりしているように思われる。わたしがこの点に注目するのは、とにかく平均的幸福を減じるような数の増加は正しいはずがない、とマルサス主義の経済学者たちがしばしば想定しているように思えるからである。しかしこれは、マルサス主義の経済学者たちが一般に公言する功利主義原理に明らかに矛盾している。彼らの功利主義原理に基づけば、人口が増加すべき地点は平均的幸福が最大化するところではなく、人間の数を平均的幸福量にかけることによって産出されるものができる限り最大になるところである。

 さて、功利主義原理が紙幅の許す限りで十分定まったと考えることができるとしたら、この原理の証明について手短に話したい。第一原理を「証明する」のは不可能だと言われることもあろう。もし証明ということで、問題となっている原理をそれが自らの確実性を依存している諸々の前提からの推論であると示すような過程のことを意味しているのであれば、このことはもちろん正しい。というのも、これらの前提から引き出される推論ではなくて、これらの前提が真の第一原理となるであろうからだ。いな、功利主義がすでに他の何らかの道徳原理を支持している人に対して、例えば真理、正義、権威への服従、純潔などの諸原理を究極的なものと考えている直観主義や常識の道徳主義者に対して、また自らの利益を自分自身の行為の究極的に合理的な目的だと考えている利己主義者に対して証明されるとすれば、この過程は妥当性において自ら出発する前提より実際に優れた結論を打ち立てるようなものでなければならないだろう。というのも功利主義による義務の指令は、ある点のある状況の下では直観主義の規則とも合理的利己主義の命令とも一見したところ衝突するからだ。それゆえ、いやしくも功利主義が受け入れられるのだとすれば、それは直観主義や利己主義に勝るものとして受け入れられなければならない。だが他の[功利主義とは異なる]諸々の原理が妥当なものとして完全に受容されるのでなければ、いわゆる証明は、直観主義者や利己主義者には全く向けられないように思われる。このジレンマはどうしたらいいだろう。どうすれば(通常の証明とは間違いなく非常に異なった)このような過程が可能なのか、あるいは考えられるのか。必要なのは、一方ですでに受け入れられた諸々の原理の妥当性をある程度まで許容し、他方でそれらの原理が不完全であること――すなわち、絶対的に、そして独立に妥当なのではなく、制限と完成を必要としていること――を示すような筋道の議論であるように思われる。直観主義と利己主義の二つの場合についてそれぞれ、このような筋道の議論を検証してみる価値があるかもしれない。功利主義者は、真理、正義などの諸原理には依存的で従属的な妥当性しかないということを直観主義者に示そうと努力している。そして、原理とは実際には真理の場合のように例外を認める一般的規則として常識によって認められるのに過ぎないとか、正義の場合のように基礎概念とは曖昧であって更なる限定を要するとか、さらに、様々な規則は互いに衝突しやすく、いま挙げたこの問題を解決するために何らかのより高次の原理が必要であるということや、諸々の規則が様々な人から様々に定式化されており、これらの違いは直観主義者が訴える常識道徳の概念の曖昧さや両義性を示す一方で、直観主義的な解決を許さないということを論じるのである。そして、これらすべての場合において、常識は必要とされる更なる限定や決定のために功利主義の原理に自然と頼るのである。このように、功利主義と直観主義の関係には、肯定的な側面と否定的な側面の両方があるように思われる。肯定的なものとしての功利主義は、現行の道徳規則の一般的妥当性を、それらの規則の更なる正当化や、それらの規則の厳重さについての直観的認識、また、それらの規則を完全で調和した体系へとまとめる綜合原理や方法も示すことで、支持し保持する。否定的なものとしては、これらの規則が功利主義の原理に依存し従属していることを示すために、功利主義は上述のごとくこれらの規則の不完全さを示さなければならない。功利主義のこれら二つの側面はいずれも、イギリス倫理思想の様々な時代において非常に排他的な仕方で顕著であったことにわたしは気づくかもしれない。カンバーランドが紹介したような功利主義は、とても純粋に保守的である。この功利主義では、道徳規則が一般的な善に一般にどれだけ資するかということを全体的に論じており、一般に考えられるものとしてのこれらの規則が不完全な点は無視している。他方、ベンサムの功利主義は、とても純粋に破壊的であって、常識道徳を不要なとげとげしさと軽蔑を込めて扱っている。

 功利主義と利己主義の関係はもっと単純である。ただし、完全な正確さでもってその関係を述べるのは難しいように思われる。実際、このことについてはクラーク、カント、ミルのような実質的には意見が一致しているように思われる様々な著者によって、非常に違ったふうに述べられている。利己主義者は自分自身の幸福や快楽を自らの究極目的とすべきであるという信念を述べることに利己主義を厳密に限定すれば、利己主義者を(第一原理として)功利主義へ導く議論の余地はないように思われる。だが、利己主義者がこの確信の根拠としてであれ、この確信を述べる別の形式としてであれ、自らの幸福や快楽は客観的に「望ましい」とか客観的にみて「善」であるという命題を提案するなら、利己主義者は必要な余地について譲歩している(he gives the requisite opening)。というのも、功利主義者はその場合、利己主義者の幸福が他の誰かの幸福よりも客観的に望ましいとかより大きな善ではありえないことを指摘できるからだ。つまり、彼が彼であるという単なる事実(もしこのように言い換ええるならば)は、彼の幸福の客観的な望ましさや善さとは何の関係も持ちえないからである。したがって、利己主義者は自分自身の原理から出発することで、普遍的な幸福や快楽についてのより広い概念を、理性の実際の目的、つまり絶対的に善いもしくは望ましいものを表すものとして、それゆえ理性的な行為者の行為が向けられなければならない目的として受け入れなければならないのである。

 功利主義の、したがって利己主義者に向けられた証明が、功利主義規則の制裁についての説明、つまり規則の遵守と違反の結果としてそれぞれ快楽と苦痛が生じるだろうという説明とは、まったく違うということに注意しておかなければならないだろう。このような[後者の]説明によってわたしたちが功利主義を第一原理として採用するようになることは明らかにありえず、利己主義から演繹される結論か利己主義の特別な応用として功利主義を採用するようになるだけである。同時に、証明と制裁とのこの二つ、つまり最大多数の最大幸福を(ベンサムの言い回しでいうと)行為の「正しく適切な」目的として受け入れるための理由と、この目的を自らの目的にする個人の動機との二つは、議論においてとても頻繁に混同されている。

 これが、功利主義的という用語が一般に意味しているとわたしが信じる正しい行為の理論について、また、この理論と人間行為における正しいもの、理に適ったもの関する他の理論との関係について、はっきりした概念を得るために明確にしておく必要があるとわたしに思われる最後の点である。わたしの言明に議論の余地があろうとなかろうと、わたしの言明によって生じる諸々の問題がはっきり解決すれば、それはある者が功利主義者かどうかという問題をいま議論するよりも、おそらくは有益であろうというのがわたしの考えである。

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