カントの年表

カントの年表

カントの年表です。有福孝岳・坂部恵編『カント事典』(弘文堂、1997年)に収められている菅沢龍文・平野登士・小野原雅夫編「カント年譜」を限りなく参考にしております。

年代 年齢 内容
1724年 0歳 4月22日、イマヌエル・カント(1724-1804)、ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に9人の子供のうち第四子として生まれる。父の名はヨハン・ゲオルク・カント(1683-1746)で馬具職人、母の名はアンナ・レギーナ・ロイター(1697-1737)。
1730年 5歳 聖ゲオルク養老院付属小学校に入学する。
1732年 8歳 コレギウム=フリデリキアヌム(フリードリッヒ学院)に入学する。
1737年 13歳 母(1697-1737)没す。
1740年 16歳 ケーニヒスベルク大学に入学する。
1746年 22歳 大学を卒業。卒業論文の題名は「活力の真の測定に関する考察」。父没(1683-1746)す。
1747年 23歳 ダニエル・アンデルシュ家の家庭教師となる。
1749年 25歳 処女作『活力の真の測定に関する考察』を出版する。
1751年 27歳 ヒュンゼン家の家庭教師になる。
1754年 30歳 「ケーニヒスベルク週報」で「地軸の回転によって地球がこうむる変化」、「地球は老衰するか」を発表。
1755年 31歳 『天界の一般自然史と理論』を出版する。マギスター論文「火について」を発表。私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』についての公開討論、出版。ケーニヒスベルク大学の私講師になる。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。
1756年 32歳 「ケーニヒスベルク週報」でリスボンの大地震についての論文「地震の原因について」、「地震における注目すべき出来事」、「地震論続編」を発表。クヌーツェンの没後に空席となった数学と哲学の院外教授の席を申請するが却下。『物理的単子論』についての公開討論をし、教授資格を得る。「風の理論の解明に関する新註」を発表。倫理学講義を開始。
1757年 33歳 「自然地理学講義概要 付録:西風論」を発表。
1758年 34歳 「運動と静止の新概念」を発表。ケーニヒスベルク大学でJ.D.キュプケの後任として論理学・形而上学教授の席を申請するが却下。この年、ロシア軍によってケーニヒスベルクは占領(1958-1962)される。
1759年 35歳 力学を講義。冬学期講義予告の『オプティミズム試論』を出版。
1760年 36歳 「フンク氏の早世をいたんで」を発表。
1762年 38歳 ケーニヒスベルク大学の学長であったボックの後任として詩学教授の後任に推薦されるが辞退する。『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。ウィーンでは禁書扱いになる。『三段論法の四つの格の誤った煩瑣性』を出版。ルソーの『エミール』が出版され、これを読んだカントは後年、ルソーから「人間を尊敬する」ことを学んだと告白する(『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き)。ヘルダー、カントの講義を聴く。
1763年 39歳 ベルリンアカデミーの懸賞論文「自然神学と道徳の原則の判明性」が次席に選ばれる。一位はメンデルスゾーン。『負量の概念を世界知に導入する試み』を出版。
1764年 40歳 「ケーニヒスベルク学術政治新聞」で「脳病試論」、「ジルバーシュラークの著作"1762年7月23日に現れた火の玉に関する理論"の論評への補遺」を発表。再び詩学教授職への就任を要請する勅書が発せられるが、辞退する。『美と崇高の感情に関する考察』を出版。
1765年 41歳 「1765-1766年冬学期講義計画公告」を発表。
1766年 42歳 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』を出版。ケーニヒスベルク王立図書館副司書になる(1766-1772)。
1767年 43歳 自然法と哲学概論を講義する。
1768年 44歳 「ケーニヒスベルク週報」で「空間における方位の区別の第一根拠について」を発表。
1769年 45歳 エアランゲン大学の論理学・形而上学の教授に招かれ一旦は承諾するが、後に辞退する。
1770年 46歳 イェナ大学より招聘されるが、辞退する。ランクハンゼンの後任としてケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授となる。正教授就任論文『感性界と知性界の形式と原理』を出版。鉱物学を講義する。
1771年 47歳 ケーニヒスベルク学術政治新聞で「モスカティの著作"動物と人間の構造の間にある身体上の本質的な相違について"の論評」を発表。
1772年 48歳 王立図書館副司書を辞任(1766-1772)。人間学を講義する。
1773年 49歳  
1774年 50歳 自然神学を講義する。
1775年 51歳 「夏学期講義計画; さまざまな人種について」を発表。
1776年 52歳 「ケーニヒスベルク学術新聞」で「汎愛学舎論」を発表。哲学部学部長を務める。教育学を講義する。
1778年 54歳 ハレ大学への招聘を辞退する。
1779年 55歳 哲学部学部長を務める。
1780年 56歳 ケーニヒスベルク大学評議委員会会員になる。
1781年 57歳 『純粋理性批判』を出版。
1782年 58歳 「ケーニヒスベルク学術政治新聞」で「ランベルトの往復書簡の公告」、「医者に対する声明」を発表。
1783年 59歳 『将来の形而上学のためのプロレゴーメナ』を出版。
1784年 60歳 「ベルリン月報」で「世界市民的見地における一般史の理念」、「啓蒙とは何かという問いに対する回答」を発表。
1785年 61歳 「一般文芸新聞」で「ヘルダー論評」(第一ヘルダー論評)、「抗弁」(第二ヘルダー論評)、「ヘルダー論評」(第三論評)を発表。「ベルリン月報」で「月の火山について」、「偽版の違法について」、「人種の概念の規定」を発表。『人倫の形而上学の基礎づけ』を出版。
1786年 62歳 「ベルリン月報」で「人類史の憶測的起源」、「思考において方位を定めるとはいかなることか」を発表。ケーニヒスベルク大学学長に就任(任期は半年)。『自然科学の形而上学的原理』を出版。「一般文芸新聞」で「自然法の原則に関するフーフェラントの試論に対する論評」を発表。ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。
1787年 63歳 『純粋理性批判』第二版を出版。『実践理性批判』を出版(年号には1988年と記してある)。
1788年 64歳 「ドイツ・メルクール」で「哲学における目的論的原理の使用について」を発表。ニヒスベルク大学学長に再任される。
1789年 65歳  
1790年 66歳 『判断力批判』、『新しい純粋理性批判は古い批判によってすべて無用にされるはずだという発見について』を出版。「一般文芸新聞」で「声明」を発表。これは『カント小著作集・注釈付』と題したまがい物が出回っている事に対する警告である。
1791年 67歳 哲学部学部長。「ベルリン月報」で「弁神論におけるあらゆる哲学的試みの失敗について」を発表。フィヒテが経済的支援を求めてきたのに対し『あらゆる啓示の批判の試み』の出版の口利きをすることで応える。勅令により出版物の検閲が厳しくなる。
1792年 68歳 「ベルリン月報」で「人間の本性における根本悪について」(後の『たんなる理性の限界内の宗教』の第一論文)を発表。「人間の支配をめぐる善原理と悪原理の戦いについて」(のちの『たんなる理性の限界内の宗教』の第二論文)に出版不許可の決定が下る。「一般文芸新聞」で「声明」を発表。この中で『あらゆる啓示の批判の試み』の著者がフィヒテであり、自分とは関係の無いことを主張する。
1793年 69歳 『単なる理性の限界内の宗教』を出版。「ベルリン月報」で「『それは理論では正しいだろうが、実践では役に立たない』という俗言について」を発表。人倫の形而上学を講義する。
1794年 70歳 『単なる理性の限界内の宗教』の改訂第二版を出版。「ベルリン月報」で「月が天候に及ぼす影響について」、「万物の終わり」を発表。ロシアのペテルブルク科学アカデミーの会員に選ばれる。宗教・進学に関する講義、著作を禁ずるフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の勅令が出される。カントは嫌疑を否定しながらも「陛下の忠実な臣下として」勅令を感受することを表明。
1795年 71歳 「魂の器官について」の私見をゼンメリンク宛書簡で述べる。「永遠平和のために」を出版。この頃から講義を縮小していく。
1796年 72歳 学長を辞退する。「ベルリン月報」で「哲学において最近高まってきた尊大な語調」、「誤解に基づいた或る数学上の論争の調停」を発表。「一般文芸新聞」で「フォン・ピッペルの著者としての資格に対する声明」を発表。『永遠平和のために』の改訂第二版を出版。論理学で最終講義を行う。
1797年 73歳 『人倫の形而上学 第一部 法論の形而上学的原理』を出版。「ベルリン月報」(終刊号)で「哲学における来るべき永遠平和条約の締結を告知」を発表。『人倫の形而上学 第二部 徳論の形而上学的原理』を出版。「ベルリン雑誌」で「人類愛から嘘をつく権利の虚妄」を発表。バンジャマン・コンスタンの「政治的反動について」(1796年刊)のどtsu訳語が発表される。この中でコンスタンはカントの窮余の嘘について批判する。
1798年 74歳 フーフェラントに論文「自己の病的な身体的感覚についての心意の力」を送付。『法論の形而上学的原理』改訂第二版を出版。講義録『実用的見地における人間学』を出版。『諸学部の争い』を出版し、序文で宗教・進学に関する講義、著作を禁じたフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の勅令が、ヴィルヘルム2世の亡くなった今や無効であると宣言する。『出版業について』を出版。
1799年 75歳 「一般文芸新聞」で「フィヒテの知識学に関する声明」を発表。
1800年 76歳 イェッシェの編集で講義録『論理学』を出版。ヤッハマンの『菅と宗教哲学の吟味』のために「カントの宗教哲学に関するヤッハマンの試論のための序文」を寄稿。クリスティアン・ゴットリープ・ミールケの『リトアニア語・ドイツ語辞典』に「後期」を寄稿。この頃から老衰がひどくなり、ヴァジアンスキーがカントの世話をする。
1801年 77歳 書籍商フォルマーが同年に無断で出版した『カント自然地理学』に対する「抗議声明」を発表。大学評議員を辞する最後の公式「声明」。
1802年 78歳 約40年間カントに仕えた召使のマルティン・ランペを解雇する。メモには「ランペの名は今後忘れてしまわねばならない」と記す。リンクの編集で講義録『自然地理学』を出版。
1803年 79歳 亡き弟の末娘ヘンリエッテに父親代わりとして結婚を祝福する手紙を送る。現存する最後の書簡で、ヴァジアンスキーによる代筆。リンクの編集で講義録『教育学』を出版。
1804年 80歳 2月3日、ひどく衰弱しながらも検診に来たエルスナー医師(当時ケーニヒスベルク大学学長)を立ち上がって迎え、「まだ人間性に対する感情を失っていません」と告げる。2月12日、末妹カタリーナやヴァジアンスキーが見守る中、老衰により死亡。ぶどう酒を水で薄め砂糖を混ぜたものを口にして「これでよい(Es ist gut.)」と言ったのが最後の言葉。2月28日、大学墓地に埋葬。カントは極力質素な葬儀を望んでいたが、16日間かけて町中の市民がカントに別れを告げ、数千人以上が葬儀の列に参加した。復活祭に、カントが1788年のベルリン・アカデミー懸賞論文へ応募せずにいた未完の論文をリンクが編集し『形而上学の進歩』として出版する。


SEIICHI MORIMOTO <森本誠一>
kant1724@hotmail.com