樋口裕一『知的会話入門――教養がにじみ出る聞き方、話し方』朝日新書、2008年

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 2008年12月15日(月)に阪大seikyou書籍部豊中店で購入。2009年6月30日(水)に読み始め同7月2日(木)に読み終える。

本文からの引用、コメントなど

 私が考える「知的会話」とは、知識ひけらかしのエセ教養主義的な会話術のことではない。むしろ知識・ウンチクのひけらかしとは対極にある会話力のことだ。なぜなら私が考える知的会話の基本は「聞く」ことにあるからだ。(上掲書、3頁)

 最初はふむふむと読んでいたけど、Part2以降は著者自身が知識のひけらかしになっているようにしか見えない。Part1(120頁)までは繰り返し読んでみてもよい。

 テレビのインタビューは、話し手よりも、むしろ聞き手の力量が出来不出来を大きく左右するものだ。単に、その場で思いついたことを聞けばいいというものではない。実際、聞き手がしっかり勉強しておらず、トンチンカンな質問ばかりしていると、見ているほうは実に鼻白む。(上掲書、46頁)

 どこかのエセ脳科学者のことが頭をよぎった。

 時間制限を設けるべきなのは、自慢話やウンチク話だけではない。どんな種類の本であれ、会話での発言は基本的に短く済ますのが基本だ。/具体的には、「1人1回あたり30秒以内」が目安。よく「スピーチは3分以内に収めるべき」と言われるが、実際は、よどほ面白い話でもないかぎり、聞いているほうにとっては3分でも相当に長く感じられるものだ。/1人で喋ることが許されているスピーチでさえそうなのだから、「みんなで喋る」が前提の雑談の場ではなおさら短くしなければいけない。/たった30秒では何も喋れないと思うかもしれないが、試しに、手近にある本や雑誌の文章を30秒分、音読してみるといい。読む速度にもよるが、たぶん200字分ぐらいになるだろう。/出版業界では、200字詰め原稿用紙のことを「ペラ」と呼ぶ。何かひとつのことを簡潔に伝えるには、十分な文字数だ。逆に言うと、ひとつのことをそれぐらいの文字数でまとめなければ良い文章とは評価されない。/会話での発言も似たようなものだ。30秒あればペラ1枚分ぐらい喋れるのだから、そおの時間内でまとめられない場合は、自分で思っている以上に冗長な話になっている可能性が高い。ふだんから、200字程度で話をまとめる習慣をつけておくのが、会話力を高めるための早道だと思う。(上掲書、64-7頁)

 哲学カフェをするときなどにこれは参考になると思う。私も会話は1人1回あたり30秒以内という基準を以前から支持していたので、ペラの例でさらにその信念が強まった。ちなみに「基本的に短く済ますのが基本だ」という表現には違和感を覚える。

「こだわり」という言葉〔中略〕本来、これは「どうでもいいことに執着する」という意味だ。ところが、いつの間にか「こだわりの一品」「職人ならではのこだわり」といった具合に、「誰に何と言われようと自分の信念を貫く立派な態度」のようなニュアンスで使われるようになった。(上掲書、68頁)

 確かにどこかほかのところでも同じ話を見聞きしたけど、それでも知らず知らずのうちに肯定的な意味で使うようになっていた。今度から意識しながら使うようにしよう。

 だから「あんなものはつまらない」と頭から否定するのではなく、「僕はあまり見たことがないのですが、あれはどうしてこんなに人気が出たんでしょうね」などヨン様ファンに質問したりするわけだ。そのほうが会話は円滑に進むし、知的好奇心も満たされる。先ほども述べたとおり、知的会話は議論を楽しむことが目的なのだ。(上掲書、71-2頁)


 音楽であれアニメであれ、「おたく」と呼ばれる人々の知識量は半端なものではない。そのジャンルのことなら「何でも知っている」のが「おたく」だろう。しかし、人との会話のなかで彼らがその知識を披露したとき、周囲に「教養人」として尊敬されるかと言うと、必ずしもそうではない。膨大な知識量に驚嘆されることはあっても、敬意を抱かれることは少ないのではないだろうか。/それは、彼らの知識が「ウンチク」の域を出ていないからだろう。前述したとおり、教養が「にじみ出る」ものであるのに対して、ウンチクは「ひけらかす」もの。さらに言えば、ウンチクは百科事典的な知識にすぎないから、聞いていても「深み」というものを感じない。ネットで検索すれば誰でもアクセスできるような知識をひけらかされても、相手を尊敬することはできないわけだ。(上掲書、137-8頁)

 この箇所はなんとなく納得できるところもあるけど、次の箇所はまったく理解できない。

 また、どこから入ったとしても、最終的には文学、音楽、美術という広いジャンルに手が延びることになる。そこまで掘り下げたときに、初めて「ウンチク」は「教養」と呼べるレベルに達するわけだ。(上掲書、142頁)

 これは学生の小論文だけでなく、大人の知的会話にも役に立つだろう。社会問題を論じていると、よく「世間ではこいう意見が主流だが私はこう思う」という言い方をする人がいるが、そこで言われている「世間の意見」は意外に根拠薄弱で、その人の思い込みにすぎないことが多い。しかし投書欄に目を通していれば、「このあいだ50代の主婦がこんな意見を書いていたが」といった具合に、「世間の意見」をより具体的な形で示すことができるのだ。(上掲書、184頁)

 これはまったくその通りだと思う。


フランス人をはじめとする欧米人は、なるべく自分と相手の「差異」を見つけ出して、それについて語り合おうとする。それを楽しむのが、彼らの知的会話の流儀なのだ。/たとえばパリでオペラを見た後に、こんな光景を見たことがある。/現地に何十年も住んでいる日本人の知り合いに連れて行かれたのだが、終演後カフェに入ると、彼の知り合いが何人も集まって、見たばかりのオペラについて語り合っている。いや、「語り合っている」というような穏やかな雰囲気ではない。みんな口角泡を飛ばすがごとき勢いで、ほとんど喧嘩しているようにしか聞こえない。あまりに早口なので、私には彼らが何を言い合っているのか分からなかった。/それで「あいつら、何をあんなに怒鳴り合ってるんだ?」と知り合いに尋ねたのだが、その答えを聞いて私は苦笑してしまった。/「彼らは、さっきのオペラの一幕と二幕と三幕のどれが一番良かったかで議論してるんだよ。あいつは一幕、こいつは三幕だそうだ」/そのオペラがよい出来だったことでは、お互いに意見が一致しているわけだ。これが日本人だったら、「いやあ、面白かったね」「うんうん、良かった良かった」と頷き合うだけだろう。しかしフランス人は、お互いに満足しているにもかかわらず、相手との差異を見つけて議論する。傍からは喧嘩しているように見えるが、本人たちはそれが楽しいに違いない。(上掲書、200-2頁)

 これはフランスの哲学カフェについて聞いた話と重ね合わせてみると面白い。