James Griffin, `Modern Utilitarianism', Revue Internationale de Philosophie (No. 141, 1982), pp. 331-75

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 2006年か2007年ごろに某くんと一緒に読書会をやっていたときの研究ノート。pukiwikiから移植したので表示がおかしなところがあるはず。2010/5/22

目次

  1. 「効用」の定義
  2. 心的状態説
  3. 欲求説
  4. 欲求説の問題点
  5. センの提案
  6. 「福祉」についての非功利主義的説明
  7. スキャンロンの客観的説明
  8. 「効用」についての一般的な誤解
  9. 効用が道徳に入ってくるところ
  10. ブラントの規則功利主義
  11. ヘアの二層観
  12. 規範倫理学における方法
  13. 正義と権利
  14. 他の最近の批判
    • (a)ウィリアムズの統一性(integrity)について
    • (b)ハンプシャーの通約不可能な価値について
    • (c)ドゥウォーキンの平等について
  1. 応用

スキャンロンの客観的説明(pp.343-345)

第1段落

  • たいていの必要説(need accounts)は厳格なあまり失敗に終わる
    • たいていの必要説は各人の満足のレベルを考慮せずに、単に欲求だけで必要をランクづけ→あり得ない。これが図書館の拡張と運動器具の間での学者の選択の物語の道徳
  • スキャンロンは、必要説の厳格さを避けつつも、必要説の客観性を保持する福祉の説明を提案することでこの議論に重要な貢献を果たした
  • わたしたちには多くの関心があって、健康と学習はそのうちの二つ。これらの関心は満たされるものの程度が違っている。こういったわたしたちの関心の満足の程度が様々に結びついて、副詞の様々な全体的なレベルが構成される。
  • ある関心は別の関心よりも道徳的に切迫していることがあり得る。ここでの「切迫」という概念は、関心が満たされる程度におけるさまざまな増大と減少の間にある関係のこと。
    • ブラック氏とホワイト氏の例で説明。
  • 道徳では欲求の強さではなくて、関心の切迫(urgency of concern)にこそ目を向けるべき。つまり、利益が欲求される当の理由に焦点を当てるべきなんであって、それがつまり利益の背後にある関心である。すでに保障されている利益の量が変化するにしたがって、理由の強さが変化。
  • 相対的に周辺的な(重要でない)関心もあれば、中心的な(重要な)関心もある
  • こういった考察から、わたしたちは「福祉」の定義を導き出す。
    • 社会的財の分配を決定する際に使われる個人間で測定可能な概念というのが、「福祉」のcoreな使用
    • 福祉とは、中心的関心が切迫を保持し続ける限りで、これら中心的関心の満足のことである。
    • これが福祉についての「客観的」説明。なぜなら、どちらの関心が中心的かというのは、人間一般についての事実であり、一方で欲求説が採用するのは個々人で異なる主観的選好だから。これは普通の必要説とはちがって厳格な説明ではない。なぜなら、中心的な関心は、それが満たされるにしたがって切迫度を減じるから。

第2段落

  • 福祉を中心的関心に限定するのはなぜ?
    • 根拠の一つは、責任(responsibility)と責務(obligation)のあいだにあると推定されるつながりかも。
    • 周辺的関心はわたしたちに制御可能。中心的関心はわたしたちが選択するものではない。人間の肉体がその相続人であるところのものwまあ、問題は明瞭ではない。チ的な人の特別な必要は人間に由来するものではない。そんなものを必要としない人もいるので。でも、その人がかなり早い段階で選択したものでもない→子供の例:学校でもっと刺激を望んでいる知的な子供、あるいは後に、もっと理解したいというその子の渇望は、いかなる明白な意味においてもその子の責任ではない。

第3段落

  • スキャンロンの説明の問題について
    • どの関心が中心的で、いつそれが切迫しているのかを人々の主観的な欲求に訴えることなく決定できるという想定、わたしたちの関心において一様な切迫が一様でないものの内容から独立しているという想定に問題がある
    • これは、「切迫は客観的な事柄」という言説の力
    • グリフィンが疑うように、切迫を決定することが必然的に人々の実際のさまざまな選好に訴えることを含んでいるのだとすれば、欲求説に逃げるのはそれほど容易ではいように思える
    • 健康についての道徳的要求が完全に満たされる点でわたしたち皆がどういするような点というのがあるに違いないが、それがどこかについては現在のところほとんど一致した意見はない。どうやって意見の一致が得られるかも難しい。
  • スキャンロンが望むように、切迫が個人の善についての概念から独立であるなんてことはありそうもない。

「功利性」についての一般的な誤解

  • 「功利性」の未熟で写しのようななお循環している説明(crude copy-book account still in circulation)
    • 経験機械が功利主義に対して成功しているノージックの考えにおいて。これは、せいぜい「功利性」の特定の定義に対する指摘でしかない
    • 「功利性」のさまざまな定義が可能であるということに気づいている著者の中でもこのようなcopy-bookな説明は出てくる。たとえば、デイヴィッド・ウィギンズの不満「哲学、とりわけ功利主義は、幸福意味、つまり人生の意味によって占められるべき位置に置いている」の中に出てくる。だが、ウィギンズは人生のグローバルな欲求や計画が「功利性」において果たす役割を見落としている。こういった欲求や計画は、ウィギンズのいう「幸福」よりも「意味」に近い。
    • 功利主義をヒュームの行為についての説明と結びつける必要はない
    • 責務を欲求までたどらなくてもいい
    • 功利主義は価値の一元論にコミットしていない。価値の多元主義と両立→「功利性」は実質的な価値なんかではない。何らかの目的のために誰かにとって価値があるものっていうのは何なのかに関する形式的な分析として理解されうる。説明と展開の必要あり。だが、一般に哲学者は「功利性」の現代の定義の遠大な帰結をまだ甘受してはいない。

功利性が道徳に入ってくるところ

  • 「informed desireの充足」から「福祉」への移行を正当化するのが難しいのだから、「福祉」から「べきought」はなおさら
  • なんで最大化?そうする方がより善いの?そうだとすれば、なぜ最大化が責務だと考えるのか?なにを最大化すべきか?全体の効用?平均の効用?効用の合計の代わりに、生産や何か他の数学的操作は?だれの効用を最大化すべきか?いまいる人と産まれるのが決まってる人だけ?潜在的な人の効用も?効用の最大化のテストはどこで最も適切に適用できる?道徳には非常に最広義での目的、功利主義者としての目的があるのかも。つまり、人生をよりよくする目的。効用テストが道徳の内部で働く標準なら、功利主義は目的を実現できないと主張する人がいるかも。
  • 効用テストの適用
    • 個々の行為に適用:行為功利主義
    • 規則に適用:規則功利主義
    • 特定の決定を一般化した諸々の帰結に適用:功利主義的一般化
    • 最善の帰結を生み出すべく協力しようとする集団の行動の計画に適用:Co-operative Utilitarianism
    • 動機に適用:動機功利主義
  • 行為(功利主義)と規則(功利主義)、および関連する論争への関心は最近は減退→論争ウがartificialityの法へと減退?
  • 行為功利主義の一般的定義→ある行為が正しいのは、行為者に開かれている他のあらゆる行為と少なくとも同じだけのよい帰結をその状況においてもたらす場合、およびその場合に限る
  • この定義は普段の生活で実践的な道徳の決定過程としばしば解される。でも、そのように解釈すると、道徳の決定についての重要な事実をすべて無視することに
    • 実際の状況でわたしたちに決断させているのは道徳的教育(のたまもの?)という事実?
    • 自分に都合よく強いバイアスがかかっているという事実
    • 将来を予見する能力に極度の制限があるという事実
  • わたしたちの欲求の複雑な構造についての明白な事実も無視することに



  • 過去十年で非常に重要な理論を生み出した二人
    • 規則功利主義のリチャード・ブラント
    • 二層観のリチャード・ヘア

ブラントの規則功利主義

第1段落

  • ブラントは道徳哲学の伝統的な問題を言い換えることから始める
  • 「分別があって最善なものは何か」「何が道徳的に正しいのか」→「合理的であるとすれば、言い換えると、ある人の望みが事実と論理による最大の批判に耐えられるとすれば、その人は何を望むだろうか」「そのような人は、自分の住まなければならない社会のためにどんな種類の道徳規範を支持するのか」
  • ブラントによれば、合理的な人が自分の社会のために支持すると考えられる規範は、広く効用を最大化すること。みんなが同じ規範を支持するわけではない。完全に合理的な人もちょうど同じ規範を支持するわけではない。合理的な人でも利他的な度合いに違いあり。字いつに直面しても意見を変えることができないような堅い欲求が、本人の資質や初期の両親の影響などによって残されている可能性。
  • この規範は行為功利主義のような単一の原理による規範ではない。功利主義も進歩してるんや。
  • 多くの規則からなってるけど、効果的に教えられないぐらい多いわけじゃない。
    • (1)特定のタイプの行為を強いたり禁じたりする諸々の規則
    • (2)平均的な人の知力、利己性の度合い、自制のための能力に見合った諸々の規則
    • (3)平均的な人にできること以上は要求しない諸々の規則
    • (4)それゆえ、責務と責務を超えた善行との区別の重要性を認める諸々の規則
  • 規範には公正な分配についての規則ないし諸規則が確実に含まれているだろう
  • 個々の効用の機能についての知識がないので、限界効用の平等にするのではなくて、収入(income)の平等化をその規範は求める(動機づけ、特別なニーズ、ある種の重要な社会の目的のために偏向は許容されるだろうが)
  • これらの規則は一応の力があるだけ
  • 二つの規則が葛藤したら...

第2段落

  • ブラントの規則功利主義は、行為功利主義に崩れる危険はない
  • ブラントの規則功利主義は、功利主義の比較的妨害になるような問題の多くをなんとか解決
    • 責務と責務を超えた善行の区別を解消
    • 心理学的現実主義のテストに通過
    • 多くの非功利主義者が考えていることは分配についての正しい諸規則であることを明らかにする
  • 以上のことには代償が伴っている
    • もっと普通の形態の功利主義が強いところでブラントの規則功利主義は弱い
      • 例外の取り扱い
      • 道徳の個人的側面の取り扱い

途中飛ばして

  • 「自分の社会のために人が合理的に選択すると考えられる規範」の公的なレベルから個人的なレベルへの飛躍がある。
  • ブラントの定義は、不偏性や非利己性の要素をほったらかしにしている
  • 選択者には慈愛がないかもしれないし、初期の根絶できない両親からの訓練によって曲げられているかもしれない。
  • ブラントは責務を欲求へと辿る→ブラントの説明に満足いきますか?いかないよねw


ヘアの二層観

第1段落

  • 行為(功利主義)と規則(功利主義)の論議の気がめいるような特徴→相手が説けない問題を解けるが、相手が解ける問題で自分が解けない問題はほったらかし
  • ヘアの二層観は両方の仕方でこの論議に挑む?あるレベルでは一般的な規則功利主義のようなもの、もう一つのレベルでは行為功利主義のようなもの。

第2段落

  • 二つのレベル:道徳的思考のレベルのこと。それぞれのレベルにはそれに適した原理がある
  • ヘアが「直観的レベル」と呼んだものは日常の実際的な道徳的思考のレベル。このレベルの原理は、比較的短く単純で独特でなければならず、世界が通常どんな風なのか、わたしたちが普段どんな風なのかってこととかみ合ってなければならない。知識、時間、仲間意識はわずかしかない。
  • これは、ブラントの社会規範に関する規則に機能的、内容的に類似してる
  • 「批判的レベル」は、めったにない場面に適した冷静で反省的な思考のレベル。それは、こういう状況。つまり、これらの限界を乗り越えるか、まあ実質的に乗り越えるかして、効用に直接訴えることで、特定の、たぶんまったく日常的でないことさえある状況において何を為すべきかということを考えめぐらすことができるとか、わたしたちが直観的レベルで用いている原理を評価し修正することができるような状況でのこと。
  • 批判的レベルで行う特定の状況についての判断が直観的原理の基準を与えている→その説明
  • 直観的原理としてthe highest acceptance utilityを有する原理を選ぶべき
  • 批判的レベルでの機能は、(1)直観的原理を形作る、(2)その原理間の葛藤を解決、(3)高度に非日常的な事例を扱うこと。
  • 直観的原理は批判的レベルの原理を単にまとめただけのものではない。→道徳教育の重要性をヘアは強調。わたしたちは道徳の課題に初期の段階で取り組んでいる。こういった現実を実際の道徳的決定過程は組み込んでいる。直観的原理はわたしたちの性格の多くを構成。規則は破ることはできても、性格に反することを行うのは大きなコストがかかる。

第3段落

  • 直観的原理≒一般的な規則功利主義の原理
  • 批判的原理≒行為功利主義の原理←道徳判断の普遍化可能性という点から、規則功利主義と実際には等しい
  • 二層観は動機功利主義の多くを組み込んでいる

第4段落

  • a good bit of truthがあって、難題の多くがなかったということのsign??
  • 二層観のメリットは否定しがたい
  • 正義原理や非常に硬性な権利についての原理を含め、わたしたちに一般的な道徳原理のほとんどは、経験則の状態以上のものを直観的レベルで与えられているし、批判的レベルでは必要な柔軟さが与えられている
  • ブラントに向けられた問いの例:「なぜ違った人のためにデザインされた規則を参照して自分の責務を一緒に決定しなければならないのか」→ヘアは「そうすべきじゃない」と答える。直観的原理は大部分まで各人のために作られるべきもの
  • 二層観は、直観や感受性の適切な役割についても相当な光を投げかける
  • 帰結主義と対抗する論者の策略はいかさまっぽい。ヘアはその理由を示している。
  • 功利主義が特別な状況で嘘をついたり、約束を破ったり、権利を侵害したりするのを許したり要求しするだろうし、そういう振舞いは直観に反するってのはちゃんとした指摘じゃない。
  • 直観に反するかもね。以下説明がある
  • ブランとは道徳的な正不正についての判断の権威について説明に窮する。ヘアはそんなことないように見える。
  • ベンサムの責務についての心理学的説明が適切じゃないと反対する仕方について
    • よりよい心理学的説明をする→ブラントのアプローチ
    • 責務についての功利主義的説明を動機の経験的理論から開放→ヘアのアプローチだと思う。ブラントのよりもっと強力なカント的なアプローチ

第5段落

  • でも問題がある。さまざまなレベルにに原理を置いたので、ヘアはそれをとどめることができるかどうか。
  • 効用計算は批判的レベルから直観的レベルまでしみ込んでいかないんじゃない?その結果、日常的によく行われている一般的な規則功利主義と考えられているものを傷つけるんじゃないのか?
  • 直観的レベルに所属させられた正義の諸規則は、功利原理との競争で批判的レベルに再びあらわれるんじゃ?その結果、正義の諸規則の本来の割り当ての問題が。→こっちの問題を取り上げる
  • 正義の諸原理(公開法廷、適正手続)はヘアが提唱したように直観的原理として最もよく理解されているように思われる
  • だが、この割り当てに抵抗するかのように見える他の正義の諸原理がある。そういった原理は、功利原理と同じレベルに属するように見える。
  • ロールズのマキシミン・ルール/ ドゥウォーキンの平等な配慮と尊重についての原理、最低限度の受け入れ可能なレベルの福祉についての道徳的要件、こういったものは先の割り当てにおさまらないほうでは?
  • 区別が必要だ。直観的レベルに所属させられることを受け入れる原理もあれば、そうじゃない原理もある。
  • 人びとはさまざまな効用の機能を持っているという事実は、どのようにして割り当てが決められることを許されるべきか?
  • 人びとの効用を最大化だけすべきなのか?
  • こういった方針は、ある状況ではかわいそうな人が追いやられるってことになりやしないか?
  • こういった問題はすべて批判的レベルの問題であって、たとえば最大・最小の受け入れ可能なレベルっていうのは、これに対する答え。
  • 最大もしくは最小の受け入れ可能なレベルは直観的レベルにおいてあらわれるともっともらしい議論をすることができるかもしれないが、ちがった権威をもって批判的レベルでもあらわれるんだと主張する人もたくさんいるだろう。
  • この批判的レベルにおいて、ヘアは平等の原理「みんな一人として数える」を保持している。これは、ヘアが純粋に形式的な原理であって、批判的レベルに適していると考えるような等しい重みづけについての功利主義的概念。
  • でも...。。
  • 二層観は未解決のままにしてることがある。
  • 正義の原理のいくつかを人によっては直観的レベルに割り当てるかもしれないが、いくつかってことに過ぎない。だから、二層観は残ったものを道徳的思考から消さないといけない。
  • 残りのものには道徳的思考のレベルなんて与えない。まあ、これが残ったものに対する適切な運命か。
  • こういった問題を解決するような議論はまだない。

第6段落

  • これは二層観における溝。この見解を述べる際の溝ではなくて、これを受け入れることに対して偏見はないが懐疑的な人を説得するのに必要な議論における溝。
  • 溝は埋められるかも。二層観は行為(功利主義)と規則(功利主義)の議論の中から出てきた最もまともな提案でありつづける。
  • ヘアは、20世紀の功利主義のもっとも厳格で光り輝く説明をなした。シジウィックの『倫理学の諸方法』以来。

規範倫理学の方法

  • ブラントとヘアのもう一つの功績。直観に訴えることの危うさを説いた。
  • ロールズの「反省的均衡」がある。

正義と権利

第1段落

  • 功利主義に対する過去10年で最も厄介な批判は、ロールズによる「人びとの区別(the separateness of persons)」を無視しているという非難。
  • 「他人の善のために、ある人が無制限に犠牲にされてはならない」「ある人のwell-beingは他の人のwell-beingと単純に置き換えることはできない」
  • 「人びとを平等に扱うこと」

++ 等しい重みづけ(みんな一人として数え、だれも一人以上には数えない) ++ 最小限のレベルの福祉 ++ 平等な見込みの下での平等な出発。 ++ 最大限のレベルの福祉? ++ 平等な見込みの下での平等な財(the goods) ++ 平等な福祉

  • こういった問題を考えるのに直観は役に立たない。

第2段落

  • マキシミンを選択するだけでは不十分。例外があることが直観で分かるから。
  • 最も貧しい人がよい暮らしをする裕福な社会では、たとえば芸術なんかに資源を割り当てる。これを受け入れるとして、人々が言うと考えられるのは、ある人をすでによい暮らしをしている別の人のために犠牲にするのはゆるされないということ→福祉上の大きな下落、少なくとも恐ろしく低いレベルへの下落はダメ。
    • フランス政府の例:道路わきのきれいな並木にわき見して交通事故が起こり毎年何人も死んでいるが、政府はこのことを知りながら木を伐採することはない→共通善(the common good)と大きな下落の交換を認めている。
  • これらの原理がどちらもたいへん強力なもので、ある人がより弱いひとの面倒をみるとしてみよう?
  • センのWEA(Weak Equity Axiom)「例えば障害を持っているなどの理由で、ある人が他の人ほどよい効用を生み出さず、あらゆる善のレベルでその人の暮らし向きがよくないのであれば、その人は他の人以上に何かを与えられるのでなければならない」
  • 人によっては要求をもっと緩和するかもしれない「不運な人が差相手威厳の受け入れ可能な福祉のレベルを下回り、ある者はすでにそれを上回っている場合、不運な人がより少なく与えられるということがあってはならない」
  • これでもまだ強すぎる。外科医の例。最低限のレベルをずっと下回ってきた長く生きながらえる見込みの少ないジョーンズとそれとは逆のスミス。スミスが手術されるかもしれない。

第3段落

  • 功利主義のトレードオフを区分するのは容易ではない。
  • 「他人のために、ある人が無制限に犠牲にされてはならない」というのは簡単。as if that had wrapped up in it somewhere the key to where the limit is.だが、鍵を見つけるのが容易ではない。
  • この時点では、トレードオフの完全な区分を探すのではなく、馴染みのある等値の原理に戻るのが最善の賭けのように見えるかも。効用最大化原理とこの原理とは独立の平等原理。葛藤において、時には一方が、時には他方が支配的。
  • このアプローチだと、道徳的思考は、それを超えて人が犠牲にされてはならないような線がふくまれず、その人を犠牲へと導くかもしれないトレードオフを最大化するような道徳への反対勢力が含まれるだろう。
  • よい暮らし向きのスミスは助けられ、暮らし向きの悪いジョーンズは無視される。
  • スミスの予後はジョーンズのものより明るく、スミスはいままで十分いい人生を送ってきた。どうしたらバランスが取れるかは明白。ジョーンズの便益はスミスほどではないが、無視できるものではない。ジョーンズはいままでも、そしてこれからだってスミスが得てきたほどの便益に預かっていないのだ。

第4段落

  • 上のような議論は、直観への訴えがばらばらだということの完全な例。
  • あるものは平等が効用の最大化とは独立に道徳的に重要であると結論づける。
  • 直観に訴え続けてみよう。この方法になんか価値があるんだったら、訴え続けるといい。
  • ジョーンズが6歳の子供で5年生存の見込み。スミスが12歳で10年生存の見込みとしてみよう。気まぐれな直観はスミスを生かそうということになる。
  • ジョーンズが15歳で5年生存の見込み。スミスが30歳で10年生存の見込みなら?やっぱり首尾一貫しない直観は、いまや黙ってしまう。
  • 効用と平等が問題になっている場面で、直観はあてにならない。
  • 一つや二つ以上の直観に訴えると反対の結果をもたらす。直観はただ深みがないだけではなくて、あいまい。直観は原理の外郭のちら見w
  • 非常に幅広い直観が支持するようなトレードオフを集めた場合...「異論のないトレードオフ」は功利主義のトレードオフをチェックする原理について道徳哲学が出してきたあらゆる提案を突き崩す?
  • これは、わたしたちが考察してきたような配分の原理、たとえば最大限や最小限の受け入れ可能な福祉のレベルや等値原理のセットといったようなものだけではなく、功利主義のトレードオフをチェックするよう定められた権利のさまざまな体系についても当てはまる。
  • こういった提案のどれも、それが十分に広い例だとすれば、「異論のないトレードオフ」には適合しない。このことはトレードオフにとって致命的ではなく、どんな原理ないし諸原理をトレードオフについて考える際に使用するのかを理解することが難しいというのを示しているし、この主題についての満足のいく議論からはわたしたちがかけ離れているということを示している。

第5段落

  • 「平等な尊重(equal regard)」という大まかな同じ考えということで出発点は同じ。どこで別れるのか理解できる。道徳的な観点は、ある種の平等な地位を全員に認めることで構成される。
  • ヘアの場合。道徳の鍵となる用語の意味論を論じることで、まず道徳判断の普遍的指令性を導き出す。次に、そこから「平等な尊重(equal regard)」についてのヘアの形式的概念、つまり功利主義的な「みんなを一人として数え、だれも一人以上に数えない」を導き出す。
  • ロールズは、ヘアの「平等な尊重」を不偏性というよりも望ましくないimpersonalityと考える。不偏性ってのは、原初状態で人びとが選択する原理。

ノージックは、ロールズの「平等な尊重」についての解釈が、受け入れられないほど歴史にそぐわない(unacceptably ahistorical)と考える。

  • 以下略

その他の最近の批判

 過去10年で重要なさっつの批評に言及する。

(a)ウィリアムズの統合性(integrity)について

第1段落

  • 功利主義は「否定的責任という概念を本質的に含む」とウィリアムズは言う。自分が行ったことと同様に、自分が認めたことにもわたしは責任を負う。
  • これは帰結主義者であることによって、したがって行為が生み出す事態にだけ考慮して、誰がそれを生み出したかには考慮しないことによって上のようになる。or why, as relevant to moral right and wrong.
  • これは「統一性という価値」を攻撃すること。十全に発達した人は誰でも、その人が「彼の人生がどんなものかについて、深いレベルで真剣に考える」「コミットメント」や「基本的な企図ground projects」がある。この企図は、「彼の存在と密接な関係があり、かなりの程度彼の人生に意味をもたらす」
  • 彼は効用ネットワークからの報告が、彼がそうすることによって効用が最大化するということを示しているからという理由だけで、このような企図を放棄することはできない。これは、自殺しろとか自分自身を捨てろとか要求するだろう。


第2段落

  • この「否定的責任」についての指摘は良く知られている。ウィリアムズの新しい貢献は、これを「統合性」を生かすことと結びつけてこの指摘を正当化したこと。でも、ここがウィリアムズの言ってることのもっとも曖昧なところ。ウィリアムズの指摘は、「規範理論が心理学的実在主義のテストに通過しなければならない」ということなんだろうか?それとも「規範理論はこの理論を受け入れ、人間行為の深くて避けることのできない源泉を規範理論が必要とする根拠の一部として採用しなければならない???」ということだろうか?
  • そうだとすればたしかにウィリアムズは正しいけど、どのようにしてこれが功利主義のこういった形態を無効なものにするのかまったく明確じゃない。
  • あるいはウィリアムズの指摘とは「正不正についての判断が、「否定的責任」の見地によって下される判断ほどに、他人が何を為すのかや、自然になにが起こるのかによって決定されるべきではない」ということなんだろうか。きっと、ウィリアムズはこれを考えていたんだろう。だが、「統合性」というウィリアムズの修辞的祈り(rhetorical invocation)は、この主張を支持するためにどんな方向へ向かうのだろう。ここでのこの用語の意味は?
  • 一般に使用される"integrity"が「正直(honesty)」や「一般的実直さ(general uprightness)」のようなものを意味し、あるもに価値があるのを示すのに対し、ウィリアムズの使う"integrity"、つまり「全体性」という文字通り語源上の意味においてはそういうことはない。
  • 人は「基本的な企図」を実際に持っていることがしばしば。それはこういった具合。自分たちの人生がどういったものなのか、つまり道徳的に嫌な(hideous)ものなのか、たんにつまらないものなのか、浅いものなのか、野望?
  • disintegrationとreintegration


第3段落

  • みんなの価値が完全に尊重に値するとしても、もっと一般的な問題があるだろう
    • ウィリアムズは、「全体性」について、問題を引き起こさないような仕方で価値があるものにし、それでいて効用ネットワークからの報告が要求するように功利主義的な仕方で行為することと相容れないものにするような仕方で説明する必要がある。これは簡単な仕事じゃない。
  • 確かに、わたしたちが訴える「全体性wholeness」についての別の解釈がある。
    • たとえば「全体性」を、人の行動に重大な影響を及ぼす信念において、偽善でないこと、不誠実でないこと、自己欺瞞に陥っていないこと、ちぐはぐではないこと、と一致した人の有り様を意味するものと考えてみる。
    • こう解釈した「統一性」は、明らかに何らかの保護すべき価値があるだろうが、問題は少なくともはっきりし方で功利主義と矛盾しないということ。
    • あるいは「全体性」を、ある人の全体を含むようなコミットメントを要求するものと解するかも。その場合、「全体性」は「全身全霊を傾けた」ということの一種と解されうる。たとえば、正直さを自らの中心的な価値としている人は、特定の状況のある種の特徴は道徳的に優勢で、別の種類のもの(とりわけ、効用増加の計算)は道徳的に劣勢だと理解しなければならない。
    • これは、功利主義と矛盾する「統合性」の解釈。でも、こうやって解釈した統合性は、問題を引き起こさない仕方でもはや価値を有していない。この解釈では、統合性は、功利主義の価値に対するアプローチをたんに退けているdけだろう。だから、そのアプローチを退ける根拠たりえない。この解釈に基づく議論は、論点先取の虚偽への退化。


==ハンプシャーの通約不可能な価値について [#f52ce045]

第1段落

  • これも昔からある批判だけど、ハンプシャーが最近の費用便益分析の研究によってこの批判に新しい力が与えられたことを見出す。
  • マクナマラ氏と彼のdefense advisorsによる、粗野で量的で打算的なベンサム主義について書いる。功利主義において、アメリカをベトナム戦争へと駆り立てたのは功利主義にとって瑣末なものではなかった。むしろ、功利主義の中心にあるもの。すえての価値を通約可能なものとして扱うこと。others make much the same point.


第2段落

  • their主張にまつわるある問題:「価値」という語の曖昧さ
  • 価値という語:通常は「正しさ」よりも「善い」について使われている。責務よりも活動、すなわち人びとが価値づける事態に使われている。
  • 「価値」が広く「善い」と「正しい」の両方を含むものに使われるとして、人々が価値は通約不可能だと言う場合に心の中に少なくとも部分的には抱いているかもしれないことというのは、古い義務論的主張であって、効用の最大化や、人生をよいものにするという考慮の視界の外側で起こる責務が存在知るということ。
  • 道徳的思考の浩三は、洗練された功利主義が与えることのできるよりも多くの特徴がある。


第3段落

  • 「価値」を狭く取って「善い」に限定しても、通約不可能な価値があるという主張は多くのとてもさまざまなことを意味し、plausibleなものはほとんどない。ウィリアムズによる次の不満を考えてみる。最近、あらゆる種類の社会決定において「資源の観点から量化された価値が、資源の観点から量化できない価値と対峙している。量化できない価値とは、たとえば町の大昔の部分を保存する価値であるとか、老人ユニットにおける患者の快適さとどうように尊厳について工夫する(contriving dignity)価値など」。ウィリアムズが認めることだが、このことは次のことではない。つまり、これら他の価値は重要なのではなく、むしろ、功利主義者が実際にこれらの価値が含意していること、つまり究極的に通約不可能な価値なんて存在しないということにコミットするということを考えなければならない。
  • 老人の患者の尊厳を、患者たちにプライバシーなどを与えることで拡張することと、その患者たちの快適さを彼らにもっと熱を与えることで拡張することをどうやって比較すべきか?
  • 功利主義者の回答:患者が選択肢について理解していると仮定すれば、患者自身が選択肢をどう価値づけるかでわかる。
  • ウィリアムズの指摘が、尊厳と快適さのこれら二つの考慮点はinformed desiresという単一のものさしをあてはめることはできないといってるのか、あてはめることはできるんだけど、これらの価値はこれらの価値のそこでの立場によっては決まらないといっているのかどうかが不明瞭。
    • 前者の場合:ウィリアムズはまったく間違い。
    • 後者の場合:たとえ患者が暖める方を好むとしても、政策決定者であるわたしたちが患者たちのプライバシーをより高く価値づけそれを代わりに与える根拠を持ちうるとウィリアムズは言うのだろうか?ありえない。