シジウィック『倫理学の諸方法』第3部第14章

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作業上の情報

ME7, pp. 391-407

第14章 最高善

第1節(翻訳作業中)

 本書の冒頭において<ref>第1部第1章第2節を参照</ref>倫理学の探究の目的が考えられるのには二つの形式があることについてふれた。つまり倫理学の探究の目的は、行為の規則ないし諸規則、すなわち<正>だと考えられることもあれば、行為の目的ないし諸目的、つまり<善>だと考えられることもある。近代ヨーロッパの道徳思想(moral consciousness)ではこの二つの概念は一応(prima facie)区別されるということを指摘した。なぜなら、道徳的諸規則に従う責務は絶対であると一般に考えられている一方で、人間の全体の善がそのような従属にあるとは一般には考えられていない。この見解は――――あいまいでうやうやしく、それでいて間違いなく――ストア主義のパラドックスとして退けられると私たちは言うかもしれない。人間の最高善もしくは最高の善き生(Well-being)はむしろその他の結果と考えられており、確かに人間の最高善もしくは最高の善き生と正しい行為との結びつきは一般に確実だと言われるけれど、超自然的であって独立した倫理的思索の範囲を超え出ていると考えられることがしばしばある。さてしかし、これまでの章における結論が信頼に値するならば、正しい行為についての実際的な決定は最高善の決定次第である。というのも、私たちは(a)義務について一般に受容されている格律――こうした格律は一見すると絶対的で独立しているように見えるけれども――は仔細に検討すれば思慮と慈愛(Prudence and Benevolence)といったより一般的な原理へ暗に従属しているということがわかるし、(b)思慮、慈愛、および正義ないし平等といった形式的原理を除けば、いかなる原理も直観的に明瞭であると認めることはできないし確実だと認めることもできない。さらに他方でこれらの原理それ自体は、それらが自明である限りにおいて、(1)特定の善を必要以上に選好しようとする誘惑の衝動を抑えて自分自身の全体としての善を追及し、(2)ある人を他の人よりも必要以上に選好しようとするのを抑えて自分自身の善と同じくらい他人の善を追及するようにとの教訓として述べられるかもしれない。こうして私たちヨーロッパで倫理的思索の端緒となった古い問い<人間にとっての最高善とは何か>へとひとまわりして連れ戻される。ただし、その古い問いが提起された利己主義的形態ではなくて。しかしながらそもそもこの問いが導いた論争を検討してみると、私たちをその問いへとひとまわりして連れてきた探究は書記の道徳的省察がその問いに対して与えがちであった答えのうちの1つを明らかに排除する傾向にあったことがわかる。というのも、<一般的善>はただ<一般的徳>にのみあると言うことは、もし私たちが徳によって常識道徳の主要な部分を成す規定や禁止といったものとの一致を意味しているのであれば、論理的円環へと巻き込まれることになるだろう。なぜならわたしたちはこれらの規定や禁止の決定が、この一般的善の正確な定義に依拠するのでなければならないということを見てきたからである。



第2節

第3節

第4節

第5節

考慮点1

考慮点2

考慮点3

考慮点4

<references />