「中井大介『功利主義と経済学――シジウィックの実践哲学の射程――』晃洋書房、2009年」の版間の差分

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 20頁の「いずれにせよ」で始まる段落から、その頁の最後までに書かれている内容は勉強になる。
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...haunted by a dread that it is only a wild dream, all this scientific study of Human Nature, a dream as vain and unsubstantial as Alchemy. At such moments, if I had been brought up a Roman Catholic, I might become a Jesuit in order to get a definite object in life, and have it over. I am sometimes startled to find to what a halt my old theological trains of thought and sentiment have come; I have never deliberately discarded them, but the scientific atmosphere seems to paralyse them. However I cling to the hope of a final reconcilement of spiritual needs with intellectual principles. [''Memoir'', pp. 74-5]
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===第2章===
===第2章===

2010年5月14日 (金) 17:29時点における版


 2009年5月25日(月)に阪大生協書籍部豊中店にて10%引きで購入。同日読み始める。2010年5月13日(木)に読み終える。

本文からの引用、コメントなど

全体を通して

 引用の際に頁数を示していない箇所が多数あり、学術書として最低限の体裁をなしていない。雑誌・本になっていないものは仕方ないにしても。奥野さんの本はおろかThe Methods of Ethicsもまともに読んでいないのではないだろうか。第6章ではロールズの正義論とシジウィックの倫理思想との関係について触れられているけど、とてもロールズを読んでいるとは思えない。

はじめに

 第一に、シジウィックが倫理学・経済学・政治学を軸にした哲学体系を構築しようとしたことである。彼は『倫理学の諸方法』(1874年)において、個人は合理的に行為しようとしても、利己心と利他心の葛藤から完全には逃れられないと結論付けた。これは「実践理性の二元性」と呼ばれ、個人の倫理に関するネガティブな主張と見なされることがある。[上掲書、i頁]


 第三に、シジウィックがミルを乗り越えようとしたことに注目したい。シジウィックは、ミルの倫理思想には見逃せない問題点があると考える。利己心を超克した利他的な人間性の発展によって、個人の真の幸福は実現されるという点である。そこでシジウィックは、「実践理性の二元性」を打ち出すことで、利己心と利他心の統合は不可能であると断じたのである。 [上掲書、i-ii頁]

第1章

1890年代にケンブリッジの学生として、晩年のシジウィックの講義を受講したバートランド・ラッセル[上掲書、3頁]

 ラッセルもシジウィックの講義を受けいたのか。まあG. E. ムーアがそうなんだからラッセルが受けいてもおかしくないか。

 シジウィックのようなヴィクトリア世代とラッセルやケインズなどの世代とでは、知的な脈絡よりも、価値観や哲学観の相違のほうが注目を集めることがある。たとえばラッセルは「私たちは彼を‘old Sidg’と呼び、時代遅れの人物に過ぎないと見なしていた」と証言している。ケインズは「彼はキリスト教が真理であるかどうかを疑い、それが真理ではなかったことを証明し、真理であれば良かったのにと願っただけである」と友人への手紙の中で語っている。若き日のラッセルやケインズを魅了したのは、直観的に把握される善の絶対性や、愛や美に包まれた心の重要性を説くムーアの『倫理学原理』( Principia Ethica, 1903)であり、愛や美を快楽や効用のための手段と見なしてしまうシジウィックの功利主義は、ヴィクトリア的価値観の残滓として映ったのである。

 しかし、彼らの評価には別の一面も存在する。ラッセルは「私に授けられ、根を下ろすことになった影響は、ほとんどがカント的またはヘーゲル的なドイツ観念論へと向かったが、一つだけ例外が存在した。それは、ベンサム主義の最後の生き残りである、ヘンリー・シジウィックであった。当時の私は他の若い人たち同様に、彼が受けるに値する敬意をほとんど払っていなかった」と語っている。さらにラッセルは、シジウィックが大学での宗教宣誓を拒否したことを踏まえて、「彼の哲学的能力は第一級ではなかったが、彼の知的な誠実さは絶対で揺るぎなかった」<ref>Russell [1956, p. 63; 1959, p. 30]</ref>と思い起こすのである。[上掲書、6-7頁]

 この「シジウィックのようなヴィクトリア世代とラッセルやケインズなどの世代とでは、知的な脈絡よりも、価値観や哲学観の相違のほうが注目を集めることがある。〔中略〕若き日のラッセルやケインズを魅了したのは、直観的に把握される善の絶対性や、愛や美に包まれた心の重要性を説くムーアの『倫理学原理』( Principia Ethica, 1903)であり、愛や美を快楽や効用のための手段と見なしてしまうシジウィックの功利主義は、ヴィクトリア的価値観の残滓として映ったのである」というのはどうなんだろうなあ。ラッセルやムーアにとってはそうだったのかもしれないけど、これを「ヴィクトリア世代」と「ラッセルやケインズなどの世代」と一般化して、さらにこれらの世代間には注目に値する「価値観や哲学観の相違」があったかのように論じるのには違和感を覚える。というのも、20世紀の初頭においてもR. M. ヘアを代表として道徳的直観に訴えない仕方で功利主義を擁護しようとする動きがあったしそのほかにも功利主義理論の進展が少なからずあったわけで、20世紀に入って倫理思想の風潮が一気に直観主義的な方向へと向かったなどということは決してないからだ。


ニューナム・カレッジに面した通りは、現在でも「Sidgwick Avenue」と呼ばれている。[上掲書、14頁]

 ふむふむ。これもどこかで読んだ気が。ウィキペディアだろうか?

 そこでシジウィックは、ミル以外に助言を求めるべく、倫理学の歴史を洗い直し(これはトライポスの改定作業と並行したものでもあった)、カントやアリストテレスの重要性を改めて確認し、さらにバトラーの直観主義に注目するようになる。こうしてミルに始まりバトラーへと至る哲学的探究から生み出されたのが、1874年初版の『倫理学の諸方法』(The Methods of Ethics)であり、そこでシジウィックは異なる倫理学説を比較しながら、真に客観的な道徳原理とは何かを追求するのである。同著によってシジウィックは名声を得る一方、私的利益と社会的義務――ないしは利己心と利他心――とが究極的にも対立しうるという結論は、波紋を広げることになる。究極的な道徳原理を求めながら、個人は利己心と利他心の狭間で葛藤しうるという彼の主張は、たしかに歯切れの良い主張とは言い難いかもしれない。[上掲書、16-7頁]

いずれによせシジウィックには、個人の内面で私的利益と社会的義務が調和しうると展望することはできなかったのである。[上掲書、17-8頁]


 20頁の「いずれにせよ」で始まる段落から、その頁の最後までに書かれている内容は勉強になる。

...haunted by a dread that it is only a wild dream, all this scientific study of Human Nature, a dream as vain and unsubstantial as Alchemy. At such moments, if I had been brought up a Roman Catholic, I might become a Jesuit in order to get a definite object in life, and have it over. I am sometimes startled to find to what a halt my old theological trains of thought and sentiment have come; I have never deliberately discarded them, but the scientific atmosphere seems to paralyse them. However I cling to the hope of a final reconcilement of spiritual needs with intellectual principles. [Memoir, pp. 74-5]


第2章

シジウィックの最終目標は、究極的な倫理学の方法を特定することである。[上掲書、40頁]

 シジウィックは「究極的な倫理学の方法を特定する」ようなことはしないとME7, p. 14に書いている。著者自身もこの直後に当該個所を引用しているので誤訳の指摘も兼ねてその箇所を引いてみたい。まずはシジウィックの原文を示す。

When I am asked, ``Do you not consider it ultimately reasonable to seek pleasure and avoid pain for yourself? ``Have you not a moral sense? ``Do you not intuitively pronounce some actions to be right and others wrong? ``Do you not acknowledge the general happiness to be a paramount end? I answer `yes' to all these questions. My difficulty begins when I have to choose between the different principles or inferences drawn from them. We admit the necessity, when they conflict, of making this choice, and that it is irrational to let sometimes one principle prevail and sometimes another; but the necessity is a painful one. We cannot but hope that all methods may ultimately coincide: and at any rate, before making our election we may reasonably wish to have the completest possible knowledge of each.

My object, then, in the present work, is to expound as clearly and as fully as my limits will allow the different methods of Ethics that I find implicit in our common moral reasoning; to point out their mutual relations; and where they seem to conflict, to define the issue as much as possible. In the course of this endeavour I am led to discuss the considerations which should, in my opinion, be decisive in determining the adoption of ethical first principles: but it is not my primary aim to establish such principles; nor, again, is it my primary aim to supply a set of practical directions for conduct. I have wished to keep the reader's attention throughout directed to the processes rather than the results of ethical thought: and have therefore never stated as my own any positive practical conclusions unless by way of illustration: and have never ventured to decide dogmatically any controverted points, except where the controversy seemed to arise from want of precision or clearness in the definition of principles, or want of consistency in reasoning. [ME7, p. 14]

 中略されているが次に中井訳を示す。

自分自身のために快楽を求め苦痛をさけることが究極的に合理的であると思いますか? 道徳感覚を持ち合わせていますか? ある行為が正しいのか間違っているのかを直観的に判断しますか? 一般幸福が最高目的であるべきだと認めますか? 私はこのように質問されるならば、すべてに「はい」と答える。私にとって困難は、そこから導かれる異なる原理や推論の中から、一つを選択しなければならないときに生じる。それらが対立するとき、私たちは選択を迫られる。 ……私たちの道徳的判断に内在する異なる倫理学の諸方法を、できるだけ明瞭かつ完全に説明し、それらの相互関係を提示し、それらが対立する場合には争点を明確にすること。これが本書の目的である。[上掲書、40-1頁]

 次に私の訳を示す。

 もし私が「あなたは自分自身の快楽を追求し苦痛を避けることが最も理に適ったことだと考えないのか」「あなたには道徳感覚が備わっていないのか」「あなたはある行為が正しいとか正しくないとか直観的に判断しないのか」「あなたは一般の幸福が最高目的であると認めないのか」と尋ねられれば、私はすべての問いにYesと答える。私にとって問題なのは、さまざまな原理やその原理から導かれるさまざまな推論のあいだで選択を迫られたときである。これらの原理や推論が衝突する場合には、こうした選択をする必要があることを私たちは認め、ある原理を優先したり別の原理を優先したりすることが不合理だと認めるけれど、この必要性は苦痛をともなう必要性である。私たちにできるのは、すべての方法が究極的には一致するかもしれないと望むことだけである。ともかく、私たちは選択する前にそれぞれの方法について可能な限り完全な知識を持ちたいと望むかもしれない。

 そこで本書における私の目的は、私たちに共通の道徳的推論に内在するさまざまな倫理学の方法について、できるだけ明確で十全に説明し、それらの相互関係を明らかにし、それらが衝突するように見えるところではできる限りその問題を定義することである。この努力の過程で、倫理学の第一諸原理の採用を決めるのに決定的でなければならないと私が考える考慮点について論じることになるだろう。しかしそのような原理を確立することは私の第一目的ではないし、行為の一連の実践的指針を与えることも私の第一目的ではない。私は読者の注意が全体を通して倫理的思考の結果よりも過程へと向くように望んできた。それゆえ例証によるのでなければいかなる積極的な実践的結論も自分自身のものとして述べなかったし、原理の定義が正確さや明晰さに欠けているか推論が一貫性に欠けていることから論争が生じているように思われる場合を除いて、いかなる論点についても独断的に解決しようとはしなかった。

第3章

第4章

第5章

 173頁で引用されている文章の出典を示す187頁の注(47)では「Elements, pp. 555-556.」となっているが、実際に原典に当たってみると引用されている箇所はp. 556L5-19だった。Elementsというのはシジウィックの著作でThe Elements of Politicsのこと。

I think that the periodical election of legislators should aim at being as far as possible a selection of persons believed to possess superior political capacity; and it seems reasonable to assume that the responsibilities and experience of such persons must tend materially to increase their original advantage in political insight. I therefore think that it cannot conduce to good government to let their judgment be overruled at any moment by the opinions of a comparatively ignorant and inexperienced majority. I consider, on the contrary, that a representative who does not follow his own best judgment in the exercise of his governmental functions -- even when it brings him into conflict with the temporary opinions and sentiments of a majority of his constituents -- should be held guilty of a plain dereliction of duty. [Elements, p. 556L5-19]


第6章

脚注

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