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哲学カフェのはじめ方

0. はじめに

 哲学カフェのうわさを聞いて参加してみようと思ったけど、近所ではやっていない。自分たちで始めるにしても、どうすればいいかわからない、という人がいるかもしれない。ここでは哲学カフェをはじめたい人のために、要点をまとめてみた。詳しい説明はあとの方に書いてある。少しずつ書き足していく予定。

1. ダメな哲学カフェの特徴

 まずダメな哲学カフェの特徴についてまとめてみた。なぜはじめによい哲学カフェの特徴ではなくダメな哲学カフェの特徴をもってくるのか疑問に思う人もいるかもしれないので、その点について少しだけ触れておく。

 よい哲学カフェの特徴は、それがあればあるだけ哲学カフェがよくなる(と私が考える)ものであるが、それがあるからといってたんなる会話や議論や立ち話が哲学カフェになるというものではない。逆にダメな哲学カフェの特徴は、それがなければ哲学カフェが成り立たなくなってしまうかもしれない(と私が考える)ような特徴である。私が挙げたダメな哲学カフェの特徴があるからといって即座に哲学カフェが成り立たなくなるとは限らないし、複数のダメな哲学カフェの特徴が組み合わさることで哲学カフェが成り立たなくなることもあるだろう。だが、いずれにせよダメな哲学カフェの特徴は哲学カフェが成り立つための必要条件に近いものとして私は考えており、これがよい哲学カフェの特徴ではなくダメな哲学カフェの特徴をはじめに挙げる理由である。

 以下、ダメな哲学カフェの特徴(少しずつ加筆修正)。

進行役、話題提供者、講師、もしくは主催者側の誰かが、参加者に対して何かを説明したり教えたりする 参加者同士の関係が水平ではない(社会的地位や身分など、社会の関係を哲学カフェのなかに持ち込むのはご法度。そうならないための工夫が必要) 事前登録がないと参加できない 会員にだけ開かれている 所属や名前を参加や発言に際して求められる 貸し会議室のような閉鎖的な空間で行われている 窓がない閉じた空間で行われている 机(と椅子)の配置が小中高の教室のように一方向(図がほしい) 専門用語が飛び交っている 同じ人ばかりが長く話している 発言を強要される 1. 1. 進行役、話題提供者、講師、もしくは主催者側の誰かが、参加者に対して何かを説明したり教えたりする

 哲学カフェは何かを教えたり教えられたりするものではない。そこには教師もいなければ生徒もいない。だから哲学カフェに行けば何かを教えてもらえると思っている人は、哲学カフェに参加してがっかりするだろう。

 社会の問題について地元の人たちに考えてもらおうとして哲学カフェを始める人も、うまくいかない可能性がある。そこには無知な人びとを啓蒙してやろうという意図が隠れているのかもしれない。また、特定の問題を取り上げるときに前提となる知識を参加者と共有できていない場合には、主催者側がそれを説明しようとするかもしれない。何か教えてもらえるものなのだと思って参加している人は(そしてそういう参加者は実際に少なからずいるものだが)、容易に教える教えられるの関係に陥ってしまう。しかし、これはもはや哲学カフェというよりたんなる講演会である。だから哲学カフェを始めるときには、特定の問題から入らないというのがひとつのやり方である。

1. 2. 参加者同士の関係が水平ではない

 哲学カフェには教師も生徒もいないため、教える進行役も教えられる参加者もいない。また参加者同士でも、教える参加者、教えられる参加者が出てこないように工夫しなければならない。進行役には特別な役割があるものの、それを除けばその場にいるすべての人が水平な関係で議論するのが哲学カフェである。したがって、社会的地位や身分など、社会のなかでの関係を哲学カフェには持ち込まないようにしなければならない。講演会やセミナーでは質問するときに所属と名前を言わされることがある。それを省略していきなり質問から始めると「すみません、まず初めに所属とお名前を」と注意されたりもする。

 哲学カフェでは逆に所属や名前を言わないようにしなければならない。進行役と参加者、あるいは参加者同士が顔見知りであっても、お互いに名前で呼ばないようにしないと、他の参加者が疎外感を感じて発言しづらくなるだろう。あるいは哲学カフェで何かありがたいことを教えてもらえるものだと思っている人は、大学教授を名乗る人の話を聞こうとして、他の人の発言を無視して、一方的に特定の参加者にばかり質問をするかもしれない。

 知っている人同士であったとしても「さきほど発言された方」「そちらの帽子をかぶっておられる方」のように話す工夫が必要である。

1. 3. 専門用語が飛び交っている

 専門用語を使うと、それを知らない参加者は議論に参加できなくなる。専門用語を使うことで、それを知っている自分を高みに置こうとする人、難しい言葉で他の参加者を煙に巻こうとする人がいる。よくよく話を聞いてみると、よくそのことばを知らなかったり、誤解していたりすることも少なくない。哲学を実践する上で重要なことは、自分のことばで語ることである。自分の言葉で語れないのは、ことばが上滑りしている状態である。

[…]

とりとめもないこと

はじめに

 とりとめもないことを書きなぐっていく。書きなぐっては修正する。しかしその修正もおよそ書きなぐりにほかならないから、やはりここに書くことは書きなぐり以外のなにものでもない。最近ではツイッターで適当なことをつぶやいていたけど、思い浮かんだ一連のアイデアを書いてしまう前に中断してしまったり、しばらくたって同じようなことについてつぶやく場合でも、以前のつぶやきをうまく回収して消化しながらつぶやくということがしにくいのが難点であった。他方で、ツイッターでつぶやくときにはひとつひとつのつぶやきを140字に収めなければならないので、少しはすっきりした文章にしようと努力するのがツイッターのいいところだと思う。そんなこんなで、とりあえずブログで考えていることをまとめていく実験をしてみたい。

編集メモ

 具体的なことから書き始めて抽象的なところへ筆を進めていったらよいのか、その逆の方がよいのか悩むところ。読む人にとっては前者の方がよいのだろうけど。頭に浮かぶ順序は往々にして後者なんだよなあ(具体的な事例に着想を得ているとしても)。

 この点は大学で授業をしていてもいろいろ考えさせられる。具体か抽象かとは別に総論か各論かという区別を考えてみる。総論から各論に入ろうと思うと、どうしても抽象的な話から具体的な話へという流れになりがち。もちろん総論のなかでも具体的な話はできるんだけど、たぶんそこまで言い始めると、そもそも具体についての中身のレベルが違うんだよなあ。

1. 部分と全体

1.1. ある集合の一部について批判するときに気をつけなければならないのは、そのことを全体への批判と取り違える人がいるということである。

1.1.1. このように部分への批判を全体への批判と誤解する人は少なくない。

1.2 「ある集合の一部」とは、例えば個人の行為にについて言えば、個人の行為全体のうち一つまたは全体よりも少ない部分に属する行為のことである。集団で言えば、その集団のうちの一人または全体よりも少ない部分に属する成員のことである。

1.3. ある集合の一部を批判することは、その集合の全否定ではないが、これを全体への批判と取り違える人には全否定のように受け取られる。したがってこのような人から誤解されないためには、当該の批判が全体への批判ではないことを明示的に示すことが実践的には必要である。具体的には全体から批判の対象である部分を引いた残りは批判からは無関係であるという説明をセットにする必要がある。

 「全体から批判の対象である部分を引いた残りは批判からは無関係である」というのは、ほんらいはたんにその残りの部分については批判の対象外であるというだけでよいのだが、実践的によく行われていることは積極的にその残りの部分について擁護することである。これは誠実ではないが、それぐらいおおげさにしておかないと、部分についての批判と全体についての批判の区別がつかない人に誤解されてしまうおそれがある。

 「積極的にその残りの部分について擁護する」とは、例えば公務員の仕事における不真面目さを批判する際に「ほとんどの公務員は一生懸命仕事をしてがんばっている」というのをセットにして言うような場合のことである。

2. ある集合の一部についての批判と全体への批判を取り違える人が批判する側である場合には、部分について批判しているのに全体について批判したものと誤解することになる。

2.1 この場合「あなたが批判しているのは部分でしかなく全体ではない」と指摘するだけでは十分ではないことがある。どうしたものか悩む。この点は、推論においてあいだを飛ばすことについての問題として別途考える。

3. 嫌われること。

3.1. 部分とか全体とかいう人は嫌われる。

3.1.1. 「机上の空論だ」とか「学者は現実離れしている」とか言われる。これはアドホミネム(対人論証/人格攻撃、誹謗中傷のようなものであって、批判や反論になっていない)。

[…]

人前に出て話せば必ず批判される

 『情熱大陸』の小島慶子(ラジオパーソナリティ)さんの回で印象に残る意見があったので、その部分を起こしてみた。スラッシュの「/」は編集点。番組の比較的後半の部分から。

質問「一方で生意気だとか批判の声もありますが・・・」

小島慶子「何かをしゃべれば必ずあると思います。やっぱり人前に出てしゃべるということは、必ずそういう声はあるんだと思います。ただ、えーと、それも含めてわたしは、んーと、媒体になっているわけですよ。つまりわたしっていう個人を知る人はごく数人しかいないんです。でもしゃべっているわたしっていうパーソナリティ、うん、あのー、私生活っていう意味ではなくて、しゃべっているところに出てるわたしのパーソナリティにその人が何を見るかっていうことはその人が決めることなんですねー。/だから私はよくツイッターでもそういう方とやりとりをするんですけど、はい、だからわたしのことを嫌いならば、えー、なぜあなたがわたしを嫌いなんだろうということを考察することは有効ですね、っていう風に必ず返信するようにしているんです。うん。だれかを嫌いなだけでもエネルギー使うだけですから。でも、自分が小島慶子を嫌いだっていうことは、おそらく自分は生意気さといものをじゃあ仮にね、仮に生意気さというものを嫌悪しているのだろう。なぜ自分が生意気さを嫌悪するかというと/まあ従順であることだとか、あるいは和を重んじて自分を表に出さないということを自分が重んじているからだ。で、なぜ自分がそれを重んじるかというと、ってさかのぼっていくと、自分にとって大切な世界って何だろう、自分にとってあるべき世の中って何だろいうっていうが、その人にとって形になってくるんですよ」

2010年6月30日(水)の日記

 ブログ、ツイッター、wikiなど、情報を蓄積・発信するのに用いているメディアやチャンネルが多くなりすぎて、これらを適切に使い分けることが難しくなってきた。問題の一つは、PukiWikiからMediawikiに乗り換えたもののMediawikiがPukiWikiほど使い勝手が良くなかったということである。とはいえPukiWikiもペイジを作成したときにペイジの名前によっては極端にファイル名が長くなりすぎるなど、いろいろ問題を抱えていたのも事実。情報を効率的に操作できるツールがどんどん出てきても、それらの使い方を覚えるのにかかるコストなどを加味すると、わたしたちの生活はそれほど劇的には変わっていないんだよなあ。思いつく限りではせいぜいパソコンが一般に普及したのとインターネットが普及したことぐらいで、あとは大したことないもんなあ。これに携帯電話の普及を入れるべきだと考える人もいるだろうけど、わたしは携帯電話が普及したことで普段の生活における情報操作が劇的に効率化したとは考えていない。とはいえ以上のような判断をする上で、わたしが記憶の外部化を重視していることが少なからず影響しているであろうことは見積もっておく必要があるかもしれない。

地位および名誉欲について

 なぜ人は地位や名誉を求めるのだろうか。もしこれらが生きていく上で有利に働くというのであれば分からないでもないが、後世に自分の名前を残したいということになると途端に理解することが困難になる。というのも地位や名誉を墓場まで持っていくことはできないわけだから、後世に名前を残すということは当人にとって何の得にもならないように思われるからだ。それではどうして人は死後の名誉まで求めるのだろうか。その理由をもう少し考えてみると、地位や名誉に付随する積極的な価値に引きつられて抱くようになった誤った信念によるもの、あるいは後世にまで地位や名誉が維持されることが子孫の繁栄にとって有利であるという進化論的な理由に基づくものという二つがすぐに思いつく。だが、前者であれば後世に名を残す意味は見出せないし、後者であっても自分の子孫を気遣うことが死んだ者にとってどれ程の意味があることなのかを考えればやはり意味がないように思われる。自分が生きているあいだであれ死んだあとであれ、およそ子孫の繁栄を気遣うことに意味があるのは自分が生きているあいだだけである。まあ私には思いもよらない何かがまだあるのだろうが、それは私には思いもよらないものなのだから、いずれにしても死後の名声を求めることは私にとって理解できないことなのだろう。

 こういうことを書きながら私は実存主義者なのだろうかと反省してみたりする。ところで、なぜカフカは自分で原稿を処分せずにそれを友人に託したのだろうか。それまでの著述家で死後に遺稿を処分するよう友人に託しながらも、処分されずに出版されたという例をカフカも知らなかったはずはないだろう。それなのになぜカフカは自らの手で原稿を処分せず、それを友人に依頼したのか。果たしてカフカは実存主義者なのだろうか。[ここまで、2009年1月4日]

[以下追記:2009年1月25日]

 最近は体調が悪く倒れそうになったこともあったので、万が一のことなどを考える機会があった。誰にも気づかれずに家で倒れたりして腐乱した状態で発見されたりしたら嫌だなあ、などと想像したりする。そうならないためにも、家族や研究室の関係者に現状を伝えておき、音信が途絶えるなどしたときには何か起こっていないか速やかに確認してもらえるようにお願いし、そうすることで万が一の時には関係者に連絡が行き渡るような経路を作っておかなければと考えたりしていた。とはいえ、腐乱した状態で発見されたくないというのは私の死後についての欲求であって、私が以前書いたことにしたがえば、こうした欲求を持つことは非合理的なのではなかっただろうか。このことは死後、あるいは(現在の日本では法律的には死とされていない)脳死状態での臓器移植に同意するかどうかという問題とも共通する部分があるのかもしれない。

2008年4月26日(土)の日記

 神戸で行われていた「書評カフェ」というイベントに参加してきました。「書評カフェ」の定義はよく分かりませんが、わたしが参加したイベントでは、(1)あるカフェを貸切にして、(2)絵本の朗読(読み聞かせ)があり、(3)本の内容について自由に話し合うというものでした。参加費用は500円で、飲み物を1杯注文することができます。事前の申し込みなどは必要ありません。カフェそのものが商店街の活性化のために作られたものであるという性格から、商店街で購入した食べ物は持ち込み自由です。

 今日は「大切な人に伝えたいこと」というのをテーマに、大谷智加子さんが書かれた『白うさぎ 黒うさぎ』という絵本を大谷さんご自身が朗読して下さり、全員で話し合いをしました。参加者は15名ほどで、20歳ぐらいの方から85歳の方まで幅広くいましたが、ケア・マネージャ、看護師、病院でのボランティアなど、医療・介護に関わっている方が全体的に多かったような気がします。

 医療・介護に関わっている人と話ができて大変有意義な時間を過ごすことができました。ただ、途中で一度休憩がありましたが、3時間は少し長く感じました。今回はいつもより参加者が多いとのことでしたけど、人数も話し合いをするには少し多いように感じました。場所が狭かったのも人数が多いと感じた要因の一つかもしれません。

 今日の話し合いの中で印象に残ったことをいくつか書き残しておきます。まず、(遠い)親戚の存在が思いの外大きいということに気づかされました。「家族で決めたことでも、そのことを知らない親戚からケチがつく」や「介護に関して介護に関わっていない遠い親戚から文句を言われる」といったような話がありました。また、「リビング・ウィル」という表現は形式ばっていて変に構えてしまい本心が伝えられないので「伝えたいこと」と言い換えているという話や、「告知」とは言わずに「病状説明」と言うのだという話、「病状説明」の下手な医者がいて説明を受けた翌日に自殺した患者さんがいたという体験談――話を聞く限りでは、その患者さんが自殺した原因は分かりませんでしたが――などがありました。アートがケアにつながるという意見も出てきました。アートとケアの関係について今のところわたしは懐疑的なので、今後いろいろな人の話も聞きながらよく考えていきたいと思います。

 家族が絶望的な状況にあるとき、若い医師から「あきらめないで下さい」と言われて怒ったという体験を話された方がいました。彼女が「この状況であきらめずにいられますか」とその若い医師に問い詰めると、その医師は何も言い返せなかったと言っておられました。彼女はことさらその医師が「若い」ということを強調されていたような印象を受けましたが、この話を聞いたときに患者やその家族と医師とのコミュニケーションは難しいなと思いました。実際、ある医師が若いということでわたしたちはその医師の経験が浅いという偏見を抱きがちですし、看護師やその他の医療従事者の中には「医師」というものに対して嫌悪感を抱き蔑視している人が少なくないように思います。とりわけ医療従事者間のそれは、新米で経験の浅い医師とその病院に長年勤めている経験豊富な看護師の間で、待遇や権限の面において経験や勤続年数に反するような事態が生み出しているひずみであるような気がします。

 先ほどの話に戻ると、結局のところ医療従事者は「私たちには何も言うことができません」と言うしかないように思えてきます。これは分かり合えないことを前提としたコミュニケーションです。しかし、他方で分かり合えることを前提としたコミュニケーションを求めている人たちもいるでしょうし、つらいときに何か慰めのことばをかけて欲しいと考えている人がいることも事実なわけです。「私たちには何も言うことができません」というのはいたわりのことばかもしれませんが、こうした人たちにとって慰めのことばではないはずです。

 話は変わりますが、この医師と看護師の問題はわたしたちの業界においても当てはまるような気がします。最近は大学院重点化の問題もあってか大学院生の流動性も激しくなってきましたが、昔からその大学に所属している大学院生、ときには大学教員にとって、外から入ってきた学生や教員というのは目の上のたんこぶのように見えるところがあるのかもしれません。