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浜渦辰二「脳死臓器移植問題への現象学的アプローチにむけて」『待兼山論叢 哲学篇』第44号、2010年12月、1-18頁


 先ほど(2011年2月9日)抜刷をいただいたので、ざっと読んでみた。殴り書きしたので、引用文で著者が付けていた傍点や引用する際のタイプミス・誤変換などは、あらためて見なおす。

 題名に「現象学的アプローチ」とあるが、結局最後まで何が現象学的アプローチなのか分からないままだった。そもそも現象学というものが分からないので、当然に現象学的アプローチも何なのかわからないということになる。それは著者が臓器移植を受ける本人を1人称とし、家族を2人称、そして脳死判定を3人称としているようなパースペクティブのことなのだろうか。それにしても、そもそもこの区分がうまく飲み込めない。こういう切り方と人称のあてはめ方にどれだけの合理性があるのだろうか。

 臓器移植法に関する著者の(紹介する)下記の指摘は的を得ている。

 しかし、この「本人の意思が不明でも構わない」という改正法の変更点は、臓器移植法の「基本理念」(改正によっても変更のなかった第2条)に反するのではないか、と指摘されている。この「基本的理念」には、「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は、尊重されなければならない」(傍点筆者、以下同様)とある。改正法においても、提供する意思も提供しない意思も尊重されることは確かだが、何も意思を表示していない人が家族の承諾によって提供することいなるのは、はたして、本人の意思を尊重していることになるのか。続いて同第2項は、「移植術に使用されるための臓器の提供は、任意にされたものでなければならない」とあるが、その意思が不明の時に、その臓器の提供は「任意に(自由意思によって)なされた」ものと呼べるのか。さらに同第3項には、「臓器の移植は、移植術に使用されるための臓器が人道的に精神に基づいて提供されるものであることにかんがみ……」とあるが、本人の意思が不明の時に、それは果たして「人道的精神に基づいて」と呼べるか。ここで言われているのは、本人の「人道的精神」のはずだが、改正法はそれが「誰かの役に立てたい」という家族の「人道的精神」に変貌してしまったと言わざるをえない。(4頁)

 続いて旧法における「遺族及び家族の範囲」について。

旧法の「臓器の移植に関する法律の運用に関する指針(ガイドライン)」において、「遺族及び家族の範囲」とは「原則として、配偶者、子、父母、孫、祖父母及び同居の親族」とされ、「喪主又は祭祀主宰者となるべき者」が「総意を取りまとめることが適当である」とされていたので、上記家族の一人でも反対する人がいて、総意が取りまとめられないとなると、臓器提供は不可能となる。この点、改正法でも、「喪主又は祭祀主宰者となるべき者」が「これらの者の代表となるべきもの」とされたのみで、変わっていない。旧法は、本人の「自己決定権」とそれを行使することに対して家族の総意が承諾をするという、あくまでも両方の条件が満たされる必要があったのに、改正法では、前者の条件が不要となり、家族が承諾する限り、脳死からの臓器移植はかのうになった。(5頁)

 次の個所は二つ気になるところがある。一つは改正法について著者が論じている「家族からの申し出がない場合でも、脳死からの臓器移植の候補者として、医療従事者の側からアプローチするようになり」という点で、ここでアプローチというのが何を意味しているのかは分からないが、もしそれが脳死臓器移植についての案内もしくは情報提供のようなものだとすれば、現実には家族からの申し出がない限りそのようなことは行われないことになっていたはずである。もう一つは「家族の決断の重みは、まったく異質なものとなった」という箇所で、そもそもここで「異質」というのはどういう状態の変化を指して異質と言っているのかよくわからず、しかもその異質になったという主語が「重み」であるということに考え合わせればさらに分からなくなってしまうのである。

……旧法であれば、脳死からの臓器移植は、あくまでも本人の書面による意思表示があることが第一条件であったため、もしそれが残されていれば、それが家族に本人の意思を尊重したいとの決断の後押しをして、家族が申し出をすることになる。ところが、改正法では、本人の意思が不明で、だからこそ、家族からの申し出がない場合でも、脳死からの臓器移植の候補者として、医療従事者の側からアプローチするようになり、家族が承諾しさえすれば、脳死判定から臓器移植へ進むことができる。臓器提供をしようとするなら、残された時間はそんなにないというなかで、家族は決断を迫られることになるが、そんな状態で下した結論が、どちらにしても果たして公開の残らないものとなるかどうか。家族の決断の重みは、まったく異質なものとなったと言っても過言ではなかろう。(6頁)

 次は改正法から設けられた親族への優先提供について、ここで親族に含まれる範囲と家族承諾というときの「遺族及び家族の範囲」とが異なるということを著者が指摘している箇所。この視点は、たんに「親族、遺族、家族などによって意味や範囲が異なる」という回答だけでは答えきれない含意があり、なかなか面白いと思う。でも引用しながら思ったのだが、こういうズレの指摘の根底にあるのは、親族、遺族、家族などをひっくるめて「家族、すなわち2人称」としてしまう著者の前提なのではなかろうか。冒頭でも触れたように、わたしは著者の本論文における人称の割り当てには少なからぬ違和感を覚えている。それでも、繰り返しになるがこの指摘は興味深い。

〔改正法では〕「親族への優先提供」が行われることになる。しかも、その親族とは、「配偶者、子ども及び父母」と限定された。家族への優先提供が行われる脳死・臓器移植を承諾するのも家族である(しかも、その家族の範囲は微妙に異なる)という、言わば死体・臓器の所有権は家族にあるという考えが、移植機会の公平性よりも重視されることになる。(6頁)

 ただ、上に続く次の個所はよく分からない。なぜこれが「家族による臓器の所有権の主張」(7頁)へと議論が飛躍するのか分からない。まあ、著者も「思われる」と結んでいて断定はしていないので、認識の違いと言えばそれまでだけど、紙幅の制約があるとしてもここらへんの議論はもう少し慎重にしてほしいところ。

この「親族への優先提供」という改正によって、提供の意思表示をする人が増えたとも言われているが、改正法は家族の問題を、本来あるべき家族による看取りという姿から家族による臓器の所有権の主張へと、奇妙に肥大させてしまったように思われる。(7頁)

 次の箇所はオプト・イン方式とオプト・アウト方式についての説明を言い換えた箇所であるが、例えが正確でないような気がする。おそらく「所有権」とか「社会の共有財産」というところに引っかかりをおぼえているのだろう。

更に言い換えれば、旧法では、臓器は原則的には本人の所有物であり、あえて所有権を放棄して臓器提供をするという意思を表示した人だけが例外として扱われて提供することになるのに対して、改正法では、臓器は原則的に本人の所有物ではなく、言わば社会の共有財産であり、あえて所有権を主張して臓器提供を拒否するという意思を表示した人だけが例外として扱われて提供が行われないことになる(所有権を主張しない限り所有物にはならず、共有財産として扱われる)、と言えよう。(9頁)

 10頁5行目に付された注の(9)の前半は、実際の法律と照らし合わせるとかなりおかしい。生きている身体、死後の身体、およびそれらについての所有権や法律上の扱いというのは、自分のものだと思い込んで長年使い続けてきた土地に対する所有権が主張できるというようなものとはだいぶ異なるはずである。

(9)法律的には、〔身体が〕どこからの贈り物にせよ、自分が長年使用してきたものについては、所有権を主張できるようであるが、いま法律について争うつもりはない。しかし、法律的には、所有権と処分権とは別物であって、所有権をもっているからといって勝手に処分できるとは言えないようである。(17頁)

 次の箇所は主語と述語がうまく結ばれていないように思われる。

「脳死は一律に人の死」というマスコミの不正確な図式には、〔中略〕誤解を孕んでいた。(10頁)

 次の箇所はもう少し掘り下げて議論すると面白そうだ。

臓器摘出の条件(第6条第1項)と脳死判定の条件(第6条第3項)とが、別々になっていること(これは旧法の標記に従ったものとはいえ)も、両者を離して考え、脳死判定はするが臓器摘出はしない、という選択肢に可能性を残しているようにも見えるが、ここでは器具の可能性にとどめておく。(11頁)

 次の箇所はちょくちょく本や論文で見るけど、いつも忘れてしまうので備忘録として引用しておく。

 1968年の米国ハーバード大学医学部の脳死の定義に関する特別委員会は、全脳死(報告書の表現では「不可逆的昏睡(coma dépassé)」だった)を市の新しい基準として定義した。これを受けて、1981年に出された米国統一死亡判定法では、「[死の判定](1)循環と呼吸機能の不可逆的停止、または、(2)脳幹を含む全脳のすべての不可逆的停止に陥った人は死んでいる。死の判定は、容認された医学的基準に従ってなされなければならない」とされた。これは、心臓死と並んで脳死も人の死とする法律と言えよう。(12頁)

 これに続く次の箇所について上げ足を取るようなつっこみ。問題は「米国がいかに臓器移植大国であるかが分かる」というところで、確かに言いたいことは分かるし実際米国は臓器移植大国なんだろうが、ここで日本で過去10年間に行われた心臓移植の数と米国の1年間あたりの心臓移植の数(を10倍したもの)を比較したところで、米国が臓器移植大国であるかどうかは定まらないはず。もちろん、そもそも何をもって大国とするのか、つまり客観的な数で線引きをするのか、それとも相対的に考えるのかにもよるのだけど。

米国では、1990年以降ずっと、年間2千件以上の心臓移植が行われてきている。それに比べると、日本では、1997年の臓器移植法の成立後、1999年から2010年までに脳死からの臓器移植が合計86件、そのうち心臓移植は70件であり、まったく比較にならない数字で、米国がいかに臓器移植大国であるかが分かる。(12頁)