コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
最近の更新
おまかせ表示
ヘルプ
ナビゲーション
全ページ一覧
カテゴリー一覧
mrmts wiki
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
シジウィック『倫理学の諸方法』第1部第3章のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報
更新履歴
Recent changes
表示
サイドバーに移動
非表示
←
シジウィック『倫理学の諸方法』第1部第3章
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
この操作は、以下のグループに属する利用者のみが実行できます:
登録利用者
。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
[[Category:シジウィック『倫理学の諸方法』(1907年)]] ==第3章 倫理的判断== ===第1節(翻訳作業中)=== 第1章で私は、私たちが正しいと判断する行為、「理に適っている」あるいは「合理的」であるとしてなされるべきことだと私たちが判断する行為、同様に「理性によって指令された」ものとしての究極目的についてい話した。そして私はそうした理にかなっていることを認識することによってもたらされる行為への同期と「非合理的な」欲求や系抗生とを対照させた。この言い方はさまざまな学派の著者たちによって採用されており、この主題についての共通の見解、共通の言語と一致しているように思われる。というのは、私たちは不正な行為は本質的に非合理的であって論証によって非合理的であることが示せると一般に考えているからである。そして私たちは人が正しく好意するのは理性だけによるものであるとは考えていないけれど、理性への訴えがすべての道徳的説得の本質的な一部であり、牧師や道徳の雄弁家とは区別されたものとしての道徳学者や道徳哲学者が関わる部分であるとなお主張する。他方、ヒュームが言うように「真偽の判断を意味する理性は決してそれ自身意志への動機たりえない」と広く主張されている。
シジウィック『倫理学の諸方法』第1部第3章
に戻る。