「中井大介『功利主義と経済学――シジウィックの実践哲学の射程――』晃洋書房、2009年」の版間の差分
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1890年代にケンブリッジの学生として、晩年のシジウィックの講義を受講したバートランド・ラッセル | |||
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ラッセルもシジウィックの講義を受けいたのか。まあG. E. ムーアがそうなんだからラッセルが受けいてもおかしくないか。 | |||
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シジウィックのようなヴィクトリア世代とラッセルやケインズなどの世代とでは、知的な脈絡よりも、価値観や哲学観の相違のほうが注目を集めることがある。たとえばラッセルは「私たちは彼を’old Sidg’と呼び、時代遅れの人物に過ぎないと見なしていた」と証言している。ケインズは「彼はキリスト教が真理であるかどうかを疑い、それが真理ではなかったことを証明し、心理であれば良かったのにと願っただけである」と友人への手紙の中で語っている。若き日のラッセルやケインズを魅了したのは、直観的に把握される善の絶対性や、愛や美に包まれた心の重要性を説くムーアの『倫理学原理』(Principia Ethica, 1903)であり、愛や美を快楽や効用のための手段と見なしてしまうシジウィックの功利主義は、ヴィクトリア的価値観の残滓として映ったのである。 | |||
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しかし、彼らの評価には別の一面も存在する。ラッセルは「私に授けられ、根を下ろすことになった影響は、ほとんどがカント的またはヘーゲル的なドイツ観念論へと向かったが、一つだけ例外が存在した。それは、ベンサム主義の最後の生き残りであり、ヘンリー・シジウィックであった。当時の私は他の若い人たち同様に、彼が受けるに値する敬意をほとんど払っていなかった」と語っている。さらにラッセルは、シジウィックが大学での宗教宣誓を拒否したことを踏まえて、「彼の哲学的能力は第一級ではなかったが、彼の知的な誠実さは絶対で揺るぎなかった」と思い起こすのである。 | |||
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2009年5月26日 (火) 19:49時点における版
2009年5月25日(月)に阪大生協書籍部豊中店にて10%引きで購入。同日読み始める。
本文からの引用、コメントなど
全体を通して
引用の際に頁数がまったく示されておらず、学術書としての最低限の体裁をなしていない。
はじめに
第一に、シジウィックが倫理学・経済学・政治学を軸にした哲学体系を構築しようとしたことである。彼は『倫理学の諸方法』(1874年)において、個人は合理的に行為しようとしても、利己心と利他心の葛藤から完全には逃れられないと結論付けた。これは「実践理性の二元性」と呼ばれ、個人の倫理に関するネガティブな主張と見なされることがある。[上掲書、i頁]
第三に、シジウィックがミルを乗り越えようとしたことに注目したい。シジウィックは、ミルの倫理思想には見逃せない問題点があると考える。利己心を超克した利他的な人間性の発展によって、個人の真の幸福は実現されるという点である。そこでシジウィックは、「実践理性の二元性」を打ち出すことで、利己心と利他心の統合は不可能であると断じたのである。 [上掲書、i-ii頁]
第1章
1890年代にケンブリッジの学生として、晩年のシジウィックの講義を受講したバートランド・ラッセル
ラッセルもシジウィックの講義を受けいたのか。まあG. E. ムーアがそうなんだからラッセルが受けいてもおかしくないか。
シジウィックのようなヴィクトリア世代とラッセルやケインズなどの世代とでは、知的な脈絡よりも、価値観や哲学観の相違のほうが注目を集めることがある。たとえばラッセルは「私たちは彼を’old Sidg’と呼び、時代遅れの人物に過ぎないと見なしていた」と証言している。ケインズは「彼はキリスト教が真理であるかどうかを疑い、それが真理ではなかったことを証明し、心理であれば良かったのにと願っただけである」と友人への手紙の中で語っている。若き日のラッセルやケインズを魅了したのは、直観的に把握される善の絶対性や、愛や美に包まれた心の重要性を説くムーアの『倫理学原理』(Principia Ethica, 1903)であり、愛や美を快楽や効用のための手段と見なしてしまうシジウィックの功利主義は、ヴィクトリア的価値観の残滓として映ったのである。
しかし、彼らの評価には別の一面も存在する。ラッセルは「私に授けられ、根を下ろすことになった影響は、ほとんどがカント的またはヘーゲル的なドイツ観念論へと向かったが、一つだけ例外が存在した。それは、ベンサム主義の最後の生き残りであり、ヘンリー・シジウィックであった。当時の私は他の若い人たち同様に、彼が受けるに値する敬意をほとんど払っていなかった」と語っている。さらにラッセルは、シジウィックが大学での宗教宣誓を拒否したことを踏まえて、「彼の哲学的能力は第一級ではなかったが、彼の知的な誠実さは絶対で揺るぎなかった」と思い起こすのである。