「シジウィック『倫理学の諸方法』第1部第3章」の版間の差分
(ページの作成: Category:シジウィック『倫理学の諸方法』(1907年) ==第3章 倫理的判断== ===第1節(翻訳作業中)=== 第1章で私は、私たちが正し...) |
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第1章で私は、私たちが正しいと判断する行為、「理に適っている」あるいは「合理的」であるとしてなされるべきことだと私たちが判断する行為、同様に「理性によって指令された」ものとしての究極目的についてい話した。そして私はそうした理にかなっていることを認識することによってもたらされる行為への同期と「非合理的な」欲求や系抗生とを対照させた。この言い方はさまざまな学派の著者たちによって採用されており、この主題についての共通の見解、共通の言語と一致しているように思われる。というのは、私たちは不正な行為は本質的に非合理的であって論証によって非合理的であることが示せると一般に考えているからである。そして私たちは人が正しく好意するのは理性だけによるものであるとは考えていないけれど、理性への訴えがすべての道徳的説得の本質的な一部であり、牧師や道徳の雄弁家とは区別されたものとしての道徳学者や道徳哲学者が関わる部分であるとなお主張する。他方、ヒュームが言うように「真偽の判断を意味する理性は決してそれ自身意志への動機たりえない」と広く主張されている。 |
2012年3月14日 (水) 23:18時点における最新版
第3章 倫理的判断
第1節(翻訳作業中)
第1章で私は、私たちが正しいと判断する行為、「理に適っている」あるいは「合理的」であるとしてなされるべきことだと私たちが判断する行為、同様に「理性によって指令された」ものとしての究極目的についてい話した。そして私はそうした理にかなっていることを認識することによってもたらされる行為への同期と「非合理的な」欲求や系抗生とを対照させた。この言い方はさまざまな学派の著者たちによって採用されており、この主題についての共通の見解、共通の言語と一致しているように思われる。というのは、私たちは不正な行為は本質的に非合理的であって論証によって非合理的であることが示せると一般に考えているからである。そして私たちは人が正しく好意するのは理性だけによるものであるとは考えていないけれど、理性への訴えがすべての道徳的説得の本質的な一部であり、牧師や道徳の雄弁家とは区別されたものとしての道徳学者や道徳哲学者が関わる部分であるとなお主張する。他方、ヒュームが言うように「真偽の判断を意味する理性は決してそれ自身意志への動機たりえない」と広く主張されている。