中井大介『功利主義と経済学――シジウィックの実践哲学の射程――』晃洋書房、2009年
2009年5月25日(月)に阪大生協書籍部豊中店にて10%引きで購入。同日読み始める。
本文からの引用、コメントなど
全体を通して
引用の際に頁数を示していない箇所が多数あり、学術書として最低限の体裁をなしていない。雑誌・本になっていないものは仕方ないにしても。
はじめに
第一に、シジウィックが倫理学・経済学・政治学を軸にした哲学体系を構築しようとしたことである。彼は『倫理学の諸方法』(1874年)において、個人は合理的に行為しようとしても、利己心と利他心の葛藤から完全には逃れられないと結論付けた。これは「実践理性の二元性」と呼ばれ、個人の倫理に関するネガティブな主張と見なされることがある。[上掲書、i頁]
第三に、シジウィックがミルを乗り越えようとしたことに注目したい。シジウィックは、ミルの倫理思想には見逃せない問題点があると考える。利己心を超克した利他的な人間性の発展によって、個人の真の幸福は実現されるという点である。そこでシジウィックは、「実践理性の二元性」を打ち出すことで、利己心と利他心の統合は不可能であると断じたのである。 [上掲書、i-ii頁]
第1章
1890年代にケンブリッジの学生として、晩年のシジウィックの講義を受講したバートランド・ラッセル[上掲書、3頁]
ラッセルもシジウィックの講義を受けいたのか。まあG. E. ムーアがそうなんだからラッセルが受けいてもおかしくないか。
シジウィックのようなヴィクトリア世代とラッセルやケインズなどの世代とでは、知的な脈絡よりも、価値観や哲学観の相違のほうが注目を集めることがある。たとえばラッセルは「私たちは彼を‘old Sidg’と呼び、時代遅れの人物に過ぎないと見なしていた」と証言している。ケインズは「彼はキリスト教が真理であるかどうかを疑い、それが真理ではなかったことを証明し、真理であれば良かったのにと願っただけである」と友人への手紙の中で語っている。若き日のラッセルやケインズを魅了したのは、直観的に把握される善の絶対性や、愛や美に包まれた心の重要性を説くムーアの『倫理学原理』( Principia Ethica, 1903)であり、愛や美を快楽や効用のための手段と見なしてしまうシジウィックの功利主義は、ヴィクトリア的価値観の残滓として映ったのである。
しかし、彼らの評価には別の一面も存在する。ラッセルは「私に授けられ、根を下ろすことになった影響は、ほとんどがカント的またはヘーゲル的なドイツ観念論へと向かったが、一つだけ例外が存在した。それは、ベンサム主義の最後の生き残りである、ヘンリー・シジウィックであった。当時の私は他の若い人たち同様に、彼が受けるに値する敬意をほとんど払っていなかった」と語っている。さらにラッセルは、シジウィックが大学での宗教宣誓を拒否したことを踏まえて、「彼の哲学的能力は第一級ではなかったが、彼の知的な誠実さは絶対で揺るぎなかった」<ref>Russell [1956, p. 63; 1959, p. 30]</ref>と思い起こすのである。[上掲書、6-7頁]
ニューナム・カレッジに面した通りは、現在でも「Sidgwick Avenue」と呼ばれている。[上掲書、14頁]
ふむふむ。これもどこかで読んだ気が。ウィキペディアだろうか?
そこでシジウィックは、ミル以外に助言を求めるべく、倫理学の歴史を洗い直し(これはトライポスの改定作業と並行したものでもあった)、カントやアリストテレスの重要性を改めて確認し、さらにバトラーの直観主義に注目するようになる。こうしてミルに始まりバトラーへと至る哲学的探究から生み出されたのが、1874年初版の『倫理学の諸方法』(The Methods of Ethics)であり、そこでシジウィックは異なる倫理学説を比較しながら、真に客観的な道徳原理とは何かを追求するのである。同著によってシジウィックは名声を得る一方、私的利益と社会的義務――ないしは利己心と利他心――とが究極的にも対立しうるという結論は、波紋を広げることになる。究極的な道徳原理を求めながら、個人は利己心と利他心の狭間で葛藤しうるという彼の主張は、たしかに歯切れの良い主張とは言い難いかもしれない。[上掲書、16-7頁]
いずれによせシジウィックには、個人の内面で私的利益と社会的義務が調和しうると展望することはできなかったのである。[上掲書、17-8頁]
20頁の「いずれにせよ」で始まる段落から、その頁の最後までに書かれている内容は勉強になる。