シジウィック『倫理学の諸方法』序文

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第1版への序文

 倫理学というありふれた主題についての新しい本を世に出すにあたり、はじめにこの本の計画と目的をはっきり示しておいたほうがよいだろう。この本を他と区別する特徴は、まず否定的に与えられるかもしれない。主としてこの本は、形而上学的または心理学的ではない。同時に、教義的(dogmatic)または直接実践的というわけでもない。そしてこの本は、例証のためを除けば、倫理思想史を扱わない。ある意味で本書は批判的ですらないと言えるかもしれない。なぜなら、この本が個人の道徳家の体系について批判するのは、まったく付随的にすぎないからである。この本は、何が為されるべきかに関する筋の通った確信を得るためのさまざまな方法についての解説的であると同時に批判的な考察であると主張する。そして、これらの方法は――明示的であれ暗示的であれ――人間一般の道徳的意識に見出されるに違いなく、ときどき、個々の思想家たちが独力か共同で発展させ、現在では歴史的な体系へと作り上げてきたものである。

 道徳能力の起源――おそらく近代の道徳家たちは、これに十分な注意を払ってこなかった――については探求しなかった。というのは、何らかの所与の状況において行うことが正しいとか理に適っているようなもの<ref group="原注">二つ以上の選択肢が、ある種の条件のもとでは等しく正しいかもしれない、という仮定を排除するつもりはなかった(1884年)。</ref>があり、それは知ることができるだろうという(あらゆる倫理的推論において暗示的になされていると考えられる)単純な想定をしたためである。もしそれを知る能力がいまわたしたちに備わっていると認められるなら、これを認識する能力の歴史的経緯や、この認識能力とその他の心の要素との関係を探ることは、空間の認識に関する対応する問いが幾何学に属するほどには適切に倫理学に属することはないように私には思える<ref group="原注">いまはこの言明にを若干修正する必要がるように思う(1884)</ref>。しかし、倫理学の知識の対象の本性についてはこれ以上の想定はしない。そのため本書は教義的ではない。本書で展開されるさまざまな方法はすべて中立的な立場からできる限り不偏的に(impartially)詳説され批判されている。そのため、わたしはこの主題を多く道徳家よりもある意味で実践的に論じる。というのも、わたしたちに共通の日常生活や実際の現実の実務という馴染みある問題の中でどのようにして合理的に結論に至るのかを考えることに始終従事しているからであるが、それでも、わたしの直接の目的は――アリストテレスの文句をひっくり返すと――実践ではなく知識だ。教化したいという欲求が道徳家の心を支配していることによって、倫理的科学の実際の進歩が妨げられてきたとわたしはこれまで考えてきた。and that this would be benefited by an application to it of the same disinterested curiosity to which we chiefly owe the great discoveries of physics.本書を執筆するにあたり、わたしはこういった精神で努めてきた。またこの考えから、一貫して(from first to last)読者の注意がわたしたちの諸方法が導く実際の結果にではなく、方法そのものへと集中するようわたしは望んできた。何をなすべきかを決定する真の方法を見つけ出し、それを採用するというわたしたちみんなが感じている差し迫った必要はとりあえず脇に置いておき、ある倫理的仮説から出発した場合、どのような結論に合理的に至るのか、そしてそれはどの程度確実で正確なものなのかということについて考えたいと願ってきた。

 第1部第4章は(かなり修正して)「現代批評(Contemporary Review)」からの転載であることを断っておかねばなるまい。これは「現代批評」の中では「快と欲求」についての論文としてもともと掲載されていたものである。また、友人のベン氏に謝辞を述べなければなるまい。彼は親切にもわたしの書いたものを断片から印刷されるまで、その前にも間にも(both before and during its passage through the press)読んで批判するという多少とも面倒な仕事を親切にも引き受けてくれた。出版にあたっていくつかの改善を負うている(I am undebted several improvements in my exposition)。

第2版への序文

 本書の第2版へ向けた準備の中で、わたしは多くの修正と追加をするのが望ましいことに気づいた。その範囲はかなり広範に及ぶため、第1版を購入された方のために別の形で出版するのがよいのではないかと考えた。一、二点、いくらか見解が変わったことを認めておく必要があるだろう。これは、部分的には少なくとも批判を受けたことによるものである。たとえば、第1部第4巻(「快と欲求」について)はベイン教授やその他の人びとから多くの批判を受けた。わたしは論争となっている心理学的問題について以前の意見を保持し続けるが、心理学的問題と倫理学との関係について違う見解を抱くようになった。そして実際、今あるこの章の第1節は、前の版の対応する節をはっきり否定するものである。また、その次の「自由な意志(Free-Will)」についての章に関しては、その章のもたらしたコメント(the comments which it has called forth)によって、この伝統的問題を扱う困難さが取り除かれたとはっきり分かったわけではないが、わたしの主観からこの困難さについて熟慮することを公然と排除し、それらをありのままに読者の側へ押しつけるべきではないと確信するに至った。それゆえこの版では、問題の実践的側面についてわたしがとる見解を説明し正当化するのにとどめた。さらに、実践への適用について進化論を研究したことから、以前よりも進化論をいくぶん重要視するようになったし、第3部と第4部のいくつかの箇所で、常識道徳への反省が絶えず視野に入ってくる更なる目的や基準に対する暗示的参照について説明しているところでは<ref group="訳注">原文はin my exposition of that implicit reference to some further end and standard which reflection on the Morality of Common Sense continually brings into viewで、which以下の関係代名詞節の先行詞はimplicit referenceだと思うのだが、うまく訳せない。</ref><幸福>を<福利>に置き換えることにした。しかしながら後者の変更については(第3部の結論章で説明するように)実際上の影響は究極的には見出されない。さらに私は<客観的正しさ>についての見解も修正した。第1部第1章第3節を第1版の対応する箇所と比べればわかるだろう。だがここでも変更は実質的には重要ではない。功利主義原理について説明することろで(第4部第1章)私は<最大多数の最大幸福>というややこしい言い回しの最後の4語を省略して――その作者〔ベンサム〕が究極的に助言されたように<ref group="訳注">意味がわからない。</ref>――短縮した。最後に、本書の結論章に対して強力に唱えられてきた反論に対してできる限り譲歩してきた。そこに含まれている主な議論はなおこの作品の完成にとって欠かすことのできないもののように思われるが、初めの部分を変更し結論の段落の大部分を省略することで、私は結論章に新しい側面を持たせようと努めてきた。

 この版における新しい事柄のかなりの部分は単なる説明と補足に過ぎない。曖昧か不適切に表現されていると自分自身で思ったところや誤解を招きやすいと経験によって明らかになった点についてはすべて、私の見解に関するもっと十分に分かりやすくするよう努めた。例えば、第1部第2章では倫理学と政治学の相互関係について第1版に含まれていたものよりも教示的な説明(instructive account)を付け加えようとしてきた。さらにFraser(1875年3月)にレスリー・ステフェン氏の興味深いレビューが出る前においてすら、<実践理性>についてや「正しい」「べきである」などの用語が表す一般的概念について私の一般的見解をさらに説明しておくのが望ましいことを理解していた。この目的のために私は第1部第3章を完全に書き直したし、第1章をかなり変更した。別のところ、例えば第1部の第6章と第9章および第2部の第6章では、主として私の説明をもっと明確で整ったものにするために変更した。これは第3部の最初の三つの章にかなり変更を加えたことにもあるが、その三つのうち最初の章に対してカルダーウッド教授<ref group="原注">Cf. Mind, No. 2.</ref>によってなされた反対を回避しようとしたためでもある。第2部の主要部分(第4-12章)はしかし若干変更されている。しかし第13章(<哲学的直観主義>について)では、そしてこれにつては一人以上の著作家から('by more that one writer'の'that'を'than'に読み替える)示唆に富んだ批判を受けてきたのだが、(第1版で私がそうしたように)他の倫理学者たちの意見について(on those of other moralists)注釈するだけではなく、私自身の意見についてもっと直接的な言明をした方がよいと思った。さらに第14章はかなり修正された。主とした目的はMind (No. 5)で私が公表した<快楽主義と最高善>に関する論文のある部分の内容を取り入れるためである。第4部での変更は(上で言及したものは別として)取るに足りない。検討において私が第一に割いた、三方法に対する私の見解に関して現在のところ私が気づいている間違った概念を取り除くのが主な目的であった。

 本書の改訂にあたっては、公的なものと私的なもの<ref group="原注">公表されていない批判のうちでも、特にカルヴェス・リード氏から受けた価値ある示唆に言及すべきである。この版をを改訂に際する私の訂正の多くを彼の助力に負っている。</ref>とを問わず私が気づいた本書に対するすべての批判をできる限り活かそうとした。反対が健全ではないように思われたときでも、私にとって無関心な変更によって論争を避けられると思えば、私はたびたびそうした反対に譲歩してきた。求められている変更が私にはできない場合、私にとってもっともらしく思われる批判に対しては本文か脚注で、つまり何らかの教示的な仕方でそのつど答えた。そうする際に私は相手の名前に言及したこともあったが、それはその主題の教師としてのその人のしっかりした地位によって議論にはっきりとした妙味が加わるだろうと思った場合にそうしたのであるが、そうした言及を省略することが無礼になり(cause offence)そうだと経験が示しているところでは慎重に省略した(be careful to omit)。本書はすでに私が望めたものよりもいっそう論争になっており、それゆえ純粋に個人的な関心による論争でそれを妨げないようにした。この理由から、たんなる誤解による批判には一般に顧慮しなかった。そうしたものに対しては現在の版で効果的に擁護が可能だと考えた。しかしながらひと言ふた言述べておいた方がいいように思われる基礎的な誤解が一つある。私は、本書(treatise)の計画について初版の序文と導入となる章の第5節でなされた説明を見落とすか無視し、結果として私が最初に検討した二つの方法の攻撃者で三つ目の方法の擁護者として書いているように想定している批判者が複数いることに気づいた。こうして批評家の一人は第3部(直観主義について)をたんなる敵意による外側からの批判を含んでいるとみなし、別の批評家は私の第一の目的が<利己主義の弾圧>であるという想定に基づいて論文を作成し、また第三の批評家は本書(treatise)の<主たる議論>は普遍的快楽主義の論証であるという(明らかにそういう)印象のもとに一定の長さのある小論文を書いた(has gone to the length of a pamphlet)。私はこんなにも多くの見当違いの批判を招いたことに関心があり、この版ではそうした見当違いの批判をもたらしたと思しき節を注意深く書き換えた。第3部で検討した道徳は他の人のものであるのと同じぐらいに私自身の道徳でもある。それは私が言うように(as I say)<常識道徳>であり、私はそれを共有する限りにおいて示そうとしている<ref group="訳注">ここの文は強調構文なのかなあ?</ref>。私が自分自身を常識道徳の外側に置いたのは、(1)一時的に、不偏的な批判のためか、(2)常識道徳の不完成という実践的意識によってそれを越えるよう強いられている限りかのいずれかによってである。確かに私は常識道徳を厳しく批判したが、快楽主義の方法の欠点や難点についても同じだけ遠慮せずに詳述したと自負している(特に第2部の第3章と第4章、第4部第5章を参照せよ)。また快楽主義の二つの原理に関して、幸福一般を目指すのが理に適っていると私が主張したのは、自分自身の幸福を目指すのが理に適っていると主張したときの確信ほどではない。私が別のところでそう呼んだようなこの「実践理性の二元論」に特別な注意を喚起することは私の計画の一部ではない。だが私の見解がそれを理解する私に対する批判者たちさえをも混乱させてきた範囲に私は驚いている。私は彼らがそれについて私がそれを学んだ源泉、つまりバトラーの有名な説教集へと容易にたどることができるものだと想像していた。私は「合理的自愛と良心とは人間本性における二つの主要な、すなわち崇高な原理であり」私たちはその各々に対して「明白な責務(manifest obligation)」の下、従わなければならないというバトラーにわたしは賛成している。私は合理的自愛に関する見解にしろ、神学は別として良心に関する見解にしろ、バトラーと実質的に違いはない(と信じている)。また、良心を本質的には実践理性の機能とみなす点でもバトラーと違いはない。バトラーは『類比』(第2部第8章)で「道徳的命令(moral precepts)はその命令の理由を私たちが考えるような命令である」と言っている。私の違いは私が<私たちの共通の良心の中でどれを私たちは究極的に理に適ったものだと実際に考えるのか>と自問するときにのみ始まるのである。この問いをバトラーが真剣に考えていたようには思われないし、いずれにせよこの問いに対してバトラーは満足のいく答えを出していない。私がこの問いに対して見つけ出した答えは、倫理学説とみなされたエンタムの功利主義に欠けていると私がながく考えてきた合理的基礎にある。したがって、この答えによって私は一般に考えられてきた直観主義者と功利主義者のアンチテーゼを乗り越えることができるようになるのである。

第3版への序文

第4版への序文

第5版への序文

第6版への序文

第7版への序文

 この版は第6版の重版である。(若干の誤記の訂正を除けば)第6版との違いは、第6版の457頁とこの版の457-459頁に出てくる節のタイプの変更と、(1)頁の割り当てと索引の作成、(2)第6版の重版の序文における当該の節への言及、および(3)457頁についての注の挿入に必然的に伴う変更だけである。

E. E. C. J.
1906年12月

原注

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訳注

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