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題目の通り、シジウィックの功利主義をベンサム、J. S. ミルに対する反省という観点から論じる。
19世紀に活躍したイギリスの倫理学者ヘンリー・シジウィック(1838-1900)は、一般に古典的功利主義の最後の代表者と言われている*1。これは、シジウィックが文字通り19世紀最後の功利主義者であったということと、彼が幸福の基準を快苦に求める快楽説の立場をとったことによると考えられる。これに対し、現代の功利主義で主流となっているのは選好型の功利主義で、その代表格はR.M.ヘア(1919-2002)である。
さて、シジウィックの功利主義は古典的部類に属するものの、近年では彼の功利主義に対する評価は非常に高まっている*2。とはいえ、こうした評価の大半はシジウィックが功利主義をどのように正当化するのかということについてのものであり、シジウィックの功利主義がどのようなものなのかについては、これまでほとんど語られてこなかった。その理由の一つは、功利主義について論じる人の多くが功利主義の内容よりもその正当化に関心を寄せているからだ。特にシジウィックの場合、心理的利己主義から功利主義を説明する従来の方法をとらなかったことが特徴的だった。
本論文の目的は、シジウィックによる功利主義の正当化を評価するだけでなく、彼が主張する功利主義の具体的な内容についても評価することにある。そこで本論文では、シジウィックの功利主義の特徴をできるかぎり明らかにするとともに、それを同じ古典的功利主義に分類される18、19世紀の功利主義思想、とりわけベンサム、ミルの功利主義と比較することで、シジウィックの功利主義にどのような独自性と優位性があるのかを浮き彫りにしようと試みた。
ところで、シジウィックの功利主義思想が最も体系的に論じられているのは『倫理学の諸方法』(The Methods of Ethics)*3であるが、この『諸方法』の第1版が出版される前年に発表された「功利主義」("Utilitarianism")は、『諸方法』の第4部の記述と重なる部分も多く『諸方法』の構想の一部と考えられ、シジウィックの功利主義思想の変遷について知る有力な手がかりになる。また、『倫理学史概要』(Outlines of the History of Ethics for English Readers)*4からは、シジウィックが当時の直観主義学派や道徳感覚学派をどのように評価していたのかを垣間見ることができる。そこで本論文では、『諸方法』*5、「功利主義」、および『倫理学史概要』を主要なテキストとして取り上げる。
最後に、シジウィックの倫理思想に関する先行研究について簡単にふれておこう。
実はシジウィックの倫理思想を主題とした研究はそれほど多くない。これを研究書に限るなら、その数はさらに少なくなる。これにはシジウィックに対する評価とのあいだで明らかな開きがあり、このことは、(1)シジウィック研究がまだ十分に発展していないこと、(2)シジウィックの倫理思想が十分正確に理解されないまま語られている可能性があることを暗示しているように思われる。
シジウィックの倫理思想については、ジョン・ロールズやピーター・シンガーが論文を書いている。[札幌戻ったらここを補足]
現在のところ、シジウィックの倫理思想を最も体系的に論じた研究書は、シュニーウィンドのSidgwick's Ethics and Victorian Moral Philosophyである。奥野満里子の『シジウィックと現代功利主義』も日本語で読むことのできる優れた研究書の一つとして挙げることができるだろう。
日本でも、これまでシジウィックの倫理思想について研究されることはほとんどなかった。近年の数少ない研究の数例を挙げると、先ほど挙げた奥野満里子『シジウィックと現代功利主義』(勁草書房、1999)と内井惣七の"Sidgwick's Three Principles and Hare's Universalizability"がある。
わたしたちは倫理的な判断を下すとき、何らかの原理に基づいてそれを行っている。そしてそれは、一人の人が必ずある一つの原理に依拠しているというものではなく、わたしたちは一般に複数の原理を状況に応じて使い分けている。たとえば「人を殺してはならない」という格律を支持するときに直観主義の原理に依拠している人も、別の状況では功利主義の原理に基づいて「公平ではあるが効率的ではない医療資源の配分よりも、一人でも多くの人が助かる医療資源の配分の方が正しい」と主張するかもしれない。場合によっては複数の原理を混合して判断することもあるだろう。
哲学者は逆説の危険を覚悟して原理の統一と方法の一貫性を探求するが、哲学的でない人はさまざまな原理を同時に抱き、多かれ少なかれ乱雑に結びつけてさまざまな方法を利用している。(ME7, p.6)
確かにカントやピーター・シンガーのような哲学者は、自ら正しいと信じる原理のみしたがって倫理的な判断を下し、複数の倫理学の方法を状況に応じて使い分けるということはしないかもしれない。しかしながら、哲学的でない多くの人びとは、日常の倫理的な判断に際してさまざまな原理に基づきさまざまな倫理学の方法を用いている。
さて、わたしたちが日常の倫理的な判断において用いている倫理学の方法は一つではないことを確認した。だが、シジウィックが『諸方法』で実際に検討している倫理学の方法は、直観主義、利己主義、功利主義の三つだけである。なぜシジウィックは考察の対象をこの三つの方法に限定したのだろう。これは、合理的な究極目的と考えられるものに一致する倫理学の方法が、すべて三つの方法に還元されるからである*6。
二つの一応の合理的目的がある。すなわち、卓越あるいは完全性と幸福である。このうち後者は、少なくともそれ自身のため、あるいは普遍的に探求することができる。ある種の規則は、その他の帰結を参照せずに指令されるということも一般に考えられている。これらのさまざまな原理に対応する方法は、主として三つの方法、すなわち、利己主義、直観主義、功利主義に還元される。(ME7, p. xxv)
合理的な究極目的については1・1・4で探求されており、シジウィックは合理的な究極目的と考えられるものが、(1)完全性あるいは卓越、(2)幸福の二つだけであると結論づけている。確かにわたしたちは、健康、幸運、幸福を名声のために犠牲にするかもしれず、その意味では名声も合理的な究極目的と考えられるかもしれない。しかし、名声がそれだけのために合理的に追求されるような対象だと熟慮の上で主張する人はおらず、名声やその他の目的は、結局のところ幸福や卓越といった究極目的のために追求される間接的な目的に過ぎないとシジウィックは主張する。
さて、これらの合理的な究極目的と一致する倫理学の方法が、直観主義、利己主義、功利主義の三つである。こうして、『諸方法』では第2部以下で順次これら三つの方法が批判的に検討されることになる。
周知のごとく、シジウィックは功利主義を支持し「道徳の唯一の真なる基礎は功利主義的なものである」*7と考えていた。そのため、一見すると『諸方法』の目的は、功利主義の方法を擁護することにあったと思われるかもしれない。だが、シジウィックが『諸方法』で実際に目指したのは、第1節で取り上げられた三つの方法をできるだけ中立的に批判・検討することであった。
この[倫理学の諸方法の相互関係と、それらがどこで衝突するのかを指摘し、さらに問題をできる限り明らかにするという]努力の過程で、私見では倫理学の第一原理の採用を決めるのに決定的であるような考察について論じるだろう。しかし、そのような原理を確立することはわたしの第一目的ではないし、行為の一連の実践的指針を与えることもわたしの第一目的ではない。わたしは読者の注意が全体を通して倫理的思考の結果よりも過程へと向くように望んできた。それゆえ、例証によるのでなければいかなる積極的な実践的結論も自分自身のものとして述べなかったし、原理の定義が正確さや明晰さに欠けているか推論が一貫性に欠けていることから論争が生じているように思われる場合を除いて、いかなる論点についても独断的に解決しようとはしなかった。*8
さて、この三つの方法を検討する際に重要な役割を果たすのが常識道徳(Morality of Common Sense)である。ここでわたしたちは、常識道徳と混同しやすい実定道徳(Positive Morality)を区別しておかなければならない。
いま、少なくともわたしたちの時代と文明における道徳的な人びとの間で一見したところ妥当だと意見が一致していて、人間行為の全体をほぼ完全に網羅するような一般的な規則の集成があるとする。この規則の集成がある人の属する共同体の公的な意見によって個人に課された規範とみなされる場合、それは実定道徳と呼ばれる。*9たとえば、「妻は夫に従順であるべきだ」や「神の偶像を作ってはならない」という規則は、実定道徳の一部と言えるだろう。
これに対し、この一般的な規則の集成が、人類の同意――あるいは妥当な知的啓蒙を道徳に対する真剣な関心と結びつける少なくとも人類の一部の同意(consensus)――によって道徳的真理の本体と保証されるものとみなされる場合、常識道徳と名づけられる。*10
『諸方法』でシジウィックが行った考察の重要な要をなしているのが、この常識道徳についての反省である。常識道徳についての反省には二重の意義がある。ひとつは直観主義に対するもので、常識道徳にその正当性を依拠している直観主義にとっては、常識道徳を反省してその正当性を明らかにする必要がある。もうひとつは功利主義に対するもので、功利主義は常識道徳の諸規則が功利主義原理から説明できることを示すことによって、いっそう説得的で堅固な理論と考えられるようになる。
さて、誤解を避けるために「直観主義」という用語について簡単に整理しておこう。まず、シジウィックは三つの直観主義を使い分けている。それぞれの直観主義は直観的道徳(Intuitive Morality)の段階をなしており、最も低い段階に位置するのが知覚的直観主義(Perceptional Intuitionism)である。
知覚的直観主義では一般的な規則を参照することなく、良心に依拠して個々の行為や動機について道徳的な判断を下す。だが、反省的な人はこうした個々の直観疑う。というのも、良心の声はその時々によって異なるし、人によっても異なるからである。
そこで次の段階として教義的直観主義が考えられる。教義的直観主義とは、明確で最終的に妥当な直観によって一般的な規則を識別するという立場である。三つの方法で考察されるのはこの教義的直観主義であり、シジウィックはしばしばこれを常識道徳と同一のものとして扱っている*11。
シジウィックによれば、こうした教義的直観主義も哲学的な人たちにとっては体系として満足のいくものではない。なぜなら、一般に正しいと判断される行為も、哲学的な人たちはなぜそれが正しいのかと掘り下げて問い続けるからである。
こうして第三の直観主義である哲学的直観主義が考えられる。哲学的直観主義は、常識道徳が与えてくれない哲学的な基礎を求め、現在通用している諸規則が演繹されるような絶対的で否定しようのない真で明白な原理を得ようとするものである。シジウィックが自らのことを直観主義的功利主義者と称する場合の直観主義とは、まさにこの哲学的直観主義のことである。
「功利主義」の用語を創案したのがベンサムだということは一般に知られている*12。だが、シジウィックによれば、この「功利主義」という用語はいくつかの異なった理論に適用されている*13。まず、シジウィックの提唱する功利主義がどのようなものか見てみよう。
ここで功利主義とは、次のような倫理学理論を意味している。すなわち、いかなる所与の状況においても客観的に正しい行為とは、全体として、言い換えるとその行為によって幸福に影響を受けるすべての人を考慮して最大量の幸福を生み出すであろうようなものである、という理論である。この原理とそれに基づいた方法を「普遍的快楽主義」といったような何らかの名前で呼べば、功利主義は明確になるだろう。
シジウィックによれば、功利主義とは倫理学理論の一つで「普遍的快楽主義」と呼ぶことができる。もう少し細かく見ていくと、シジウィックの提唱する功利主義には、(1)最大化主義、(2)幸福主義、(3)帰結主義の三つの特徴がある。後に触れるようにシジウィックは単純加算主義の立場もとるため、シジウィックの功利主義は、伊勢田が功利主義の特徴を一般化した「最大化主義的単純加算主義的福利主義的帰結主義」と一致する。
このようなシジウィックの功利主義は、(1)倫理学理論という点ではとくに心理学理論と対比され、(2)快楽主義という点では利己的快楽主義と対置される。この特徴から浮かび上がってくるのは、ミルの功利主義に対する批判である。
まず、「各人は自分自身の幸福を追求すべきである」という利己的快楽主義と「万人は万人の幸福を追求すべきである」という普遍的快楽主義の違いは明白であり、さほど問題にはならない。ところが、心理学理論の心理的利己主義と、倫理学理論の利己的快楽主義や普遍的快楽主義との違いについては、シジウィックがその違いを指摘するまでずっと混同されてきた*14。この背景には、人間は本来利己的であるという人間本性理解と、わたしたちは万人の幸福を目指すべきであるという道徳的直観があるように思われる。
たとえば、初期の功利主義者で神学的功利主義者と評されるエイブラハム・タッカーは、この溝を埋めるために神の啓示に訴えたが、これは神の啓示という形而上学的概念に訴えることで問題を先送りにしているのに過ぎなかった*15。そこで、この問題に真剣に取り組んだのがミルであった。
ミルは、見える(visible)ことと見る(see)こと、聞こえる(audible)ことと聞く(hear)ことについての関係から類推して、望ましい(desirable)ことを誰かがそれを望んでいる(desire)という事実から導き出せると考えた*16。ところが、最初の二つと最後の一つで問題にされている関係には決定的な違いがあり、この類推は妥当なものではない。というのも、最初の二つで問題となっている関係は、いずれも事実についてのものであるが、最後の一つで問題にされているのは事実と価値だからである。誰かがある事柄を望むというのは心理的な事実であるが、その事柄が実際に望ましいかどうかは倫理学で主題となる価値の問題である。
この箇所はしばしば、事実から価値を導く自然主義的誤謬を犯していると指摘されてきた。
心理学理論はいかなる倫理学理論とも必然的なつながりがないように思われる。心理学的快楽主義から倫理的快楽主義へと通じる自然な傾向性がある限り、この移行は、少なくとも最初は、倫理的快楽主義の利己主義的[快楽主義の]段階のものでなければならない。というのも、すべての人が自分自身の幸福を実際に追求しているという事実から、その人が他人の幸福を追求すべきであると即座で明白な推論として結論づけることはできないからである。
これは、先ほどのミルの引用に後続する次のような主張を受けていると考えられる。
なぜ全体の幸福が望ましいかについては、達成できると信じているかぎり、事実、だれもが自分自身の幸福を望んでいるという以外に、理由をあげられない。けれども、これは事実だから、われわれは、幸福が善であること、つまり、各人の幸福はその人にとって善であり、したがって、全体の幸福はすべての人の総体にとって善であるということについて、事情の許すかぎりの証拠をもっているばかりでなく、要求できるすべての証拠ももっているのである。これで幸福は、行為の究極目的の一つとして資格があること、したがって道徳の基準の一つとして資格があることを、証明し終えたのである。(世界の名著訳、496-7)
「各人が自分自身の幸福を追求している」ということから「万人は万人の幸福を追求すべきである」と推論するのは、上記の事実と価値の混同に加え、合成の誤謬を犯している。各人が一様に自分自身の幸福を追求しているとしても、各人は自分以外の幸福には全く興味がないかもしれないからである。シジウィックはそのことを正しく指摘していたわけである。
第1節で、シジウィックの功利主義が倫理学理論であって心理学理論ではないということを確認した。だが、これだけではまだ具体的に幸福が何を意味するのか、最大量とは何か、また行為によって影響を受ける人とはどこまで考慮されるべきなのかなど、具体的な内容が明らかになっていない。そこで本節では、シジウィックの功利主義の定義で用いられている諸々の概念について具体的にみていこう。
シジウィックによる幸福概念の要諦は、(1)幸福は快楽と等しいこと、(2)苦痛は快楽の負の量であり、快楽と互いに打ち消しあうこと、(3)快楽と苦痛は量的に比較可能であること、の三つである。シジウィックのこうした立場は「功利主義」から『諸方法』に至るまで一貫している。以下でこれら三つの点について順に確認していきたい。まず、『諸方法』でシジウィックが幸福について論じている箇所を見てみよう。
「幸福」は「快楽」と同等のものと理解しなければならない。(中略)功利主義者は「快楽」にあらゆる満足と喜びを含め、したがって最上のものから最低のものまで、それがあるときには維持し続けるように意志をつき動かし、欠けているときには生み出すように意志をつき動かすような、あらゆる種類の感情や意識を含める。このように理解すれば、わたしたちが快楽と呼んでいる一時的な感情の総和ないし一連のそういった感情を指示する(denote)のに幸福が使用される場合を除いて、快楽を幸福から区別することはできない。
ここで注目すべきなのは、シジウィックが幸福と同等だと理解している快楽は、非常に広い意味で用いられているという点である。シジウィックは、エウダイモニア(eudaimonia)とヘドネー(hedone)について多様な見解があったことに触れながら、幸福(happiness)と快楽(pleasure)がまったく異なるものだと主張する論者がいることを認める。しかし、シジウィックによれば、そうした論者は「快楽」という術語を功利主義者よりも狭い意味で用いている(「功利主義」、訳の二枚目)。
快楽について整理すると、狭義の快楽とは「一時的な感情の総和ないし一連のそういった感情」であり、シジウィックが幸福と同義だと主張している広義の快楽とは「最上のものから最低のものまであらゆる満足と喜びを含んだもの」であり、「それがあるときには維持し続けるように意志をつき動かし、欠けているときには生み出すように意志をつき動かすようなあらゆる種類の感情や意識」のことである。
では、広義の快楽とは、具体的にはどのようなものなのだろう。この点についてもう少しつめてからしっかり書くべし
次に、快楽の負の量とされる苦痛について確認しよう。
苦痛という望ましくないものについての認識は、功利主義者が依拠している快楽という望ましいものについての認識と不可分の付属物であり対応物であるように思われる。実際、功利主義者は常に苦痛を快楽の負の量として扱ってきた。それゆえ厳密に言えば、功利主義的に正しい行為とは、全体として最大量の快楽を生み出す行為のことではなく、苦痛に勝る快楽の最大の余剰である。ここでいう苦痛とは、同じ量の快楽に対して釣り合うと考えられた苦痛のことであり、それゆえ快楽と苦痛とは倫理的計算のために互いに打ち消し合うものである。
快楽は望ましいものであり、苦痛は望ましくないものである。功利主義者は苦痛を快楽の負の量として扱ってきた。それゆえ、功利主義的には絶対値の等しい快楽と苦痛は互いに打ち消しあうことになる。こうして、倫理的に正しい行為とは「苦痛に勝る快楽の最大の剰余」とされ、わたしたちは倫理的に正しい行為について快楽の量だけでなく苦痛の量についても考慮しなければならないことが明らかとなる。
さて、これには次のような想定が含まれている。それは、(1)快楽はすべて量的に互いに比較でき、あらゆる苦痛とも比較できること、(2)快楽と苦痛には望ましさという点から正負の示強度(intensive quantity)があること、(3)この量は理想的な尺度で大まかに量ることができるかもしれないことという三つの想定である。シジウィックによれば、これらは「幸福の最大化(Maximum Happiness)という概念に含まれている」想定である。というのも、「量的に通約不可能な(not quantitatively commensurable)諸々の要素の総量をできるかぎり最大化しようとすることは、数学的にばかげていると考えられる」からである。
だが、こうした想定には問題がないだろうか。確かに、わたしたちには普段から様々な快楽を比較している。例えば、1杯目のビールは3杯目のビールよりもおいしかったとか、今日見た映画は昨日観た別の映画よりも面白かったと判断するのは、まさに快楽を比較しているわけである。そういう意味では、快苦はすべて量的に比較できるという第一の想定と、快楽と苦痛に望ましさという点で正負の示強度があるという第二の想定は妥当である。しかし、わたしたちの感覚、過去の記憶、および将来を予測する能力はいずれも不完全であるため、快楽の量を量ることができるという想定には問題がある。こうした問題は、とりわけ個人間の快楽や人間と人間以外の感覚的動物の快楽を比較しようとするときに顕現する。そもそもシジウィックが言う「理想的な尺度」とは一体どのような基準のことなのだろう。
それでは、最大多数とはどのようなものなのであろうか。この問題に答えるためには、わたしたちは二つの範囲を明らかにしなければならない。それは、「何についての数か」という種類についての範囲と、「どれだけの人口か」という適正な人口についての範囲である。実は、こうした問題に対するシジウィックの主張は必ずしも一定していない。
まず第一の範囲について「功利主義」では次のように論じられている。
・・・・・・「最大多数」という概念について考察しよう。第一の問いは、何の数かということである。感覚的存在一般なのか、それとも感覚的動物のうち特定の種類のものを指すのか。どのような選択肢であっても一見したところ恣意的であり非合理的だ。実際、功利主義者は一般に前者の選択肢を採用する。・・・・・・実際には、功利主義者はほぼ完全に人間の快楽に限定してきた。
最大多数と言ったとき、人間だけを考慮に入れるのか、あるいは人間以外にも何らかの感覚的動物を考慮に入れるのか。シジウィックは、どのような選択肢であっても合理的には決められないと言っている。そこで功利主義者は一般に感覚的存在一般が考慮に入れられるべきだという立場をとりつつも、快楽計算の困難さから実際にはほぼ完全に人間の快楽のみを考慮に入れているということを紹介するに留めている。ところが、『諸方法』では逆にこの範囲から特定の感覚的動物を排除することが恣意的だと論じられている。
「すべて」とは誰のことなのか、そして誰の幸福を考慮すべきなのか考察しなければならない。わたしたちは、わたしたちの行為によって影響を受ける快苦の感情について能力を持つあらゆる生き物(all the beings capable of pleasure and pain whose felings are affected by our conduct)まで関心を広げるべきなのだろうか。あるいは、わたしたちは見解を人間の幸福に限定すべきなのだろうか。前者の見解はベンサムやミルが採用したもので、(わたしの信じるところによれば)功利主義学派で一般に採用されている見解である。そして、この見解は明らかに功利主義原理に特徴的な普遍性と最も一致する。功利主義者がそれを目指すことを自らの義務と考えたのは、<幸福>すなわち<快楽>として解され定義される普遍的善である。このように考えられた目的から何らかの感覚的動物の何らかの快楽を排除することは、恣意的であり、理にかなっていないように思われる。
この二つの主張は、一見すると矛盾しているように見えるかもしれない。だが、『諸方法』においてシジウィックは「何についての数か」という問題に対して合理的に線引きが出来ると言っているわけではい。ここでもやはりシジウィックは、功利主義者が一般に感覚的存在一般を考慮に入れるという立場をとっていることを紹介するにとどめている。シジウィックが恣意的で理にかなっていないと言っているのは、あくまで功利主義者が目指すことを義務とする普遍的善の観点から見た場合のはなしである。
さて、もう一つの範囲「どれだけの人口か」についてはどうであろう。シジウィックは「平均的幸福が同じままだとすれば、もちろん多ければ多いほどよい」と言う。しかし、地球の資源や食料の供給量には限りがあるため、人口の単純な増加は平均的幸福を減じることもある。そこでシジウィックは「増数によって享受される幸福の量を残りの者が失う幸福の量と比較考量しなければならない」と言う。つまり、人口の増加により平均的幸福が減少しても、全体として増加する幸福の方が大きければ、その限りでわたしたちは人口を増加させるべきだということである。
問題はそのような人口をどうやって知ることができるのかということであるが、この点についてシジウィックはまったく語っていない。ともかく、わたしたちはシジウィックが最大多数と言ったときに、人口の単純増加を支持していないということだけは押さえておくべきである。
シジウィックは第4部第1章第2節の最終段落で、幸福の分配について触れている。幸福の分配とは、一定量の幸福を誰にどのような仕方で割り当てるのかという問題である。幸福の分配について考察することが重要になってくるのは、わたしたちが行為の帰結を完全な数学的正確さで見積もることができないからである。では、なぜわたしたちの快楽計算が不完全だと幸福の分配が問題になるのだろうか。
例えば、脳死によってある臓器の移植が一人の患者に対してだけ可能になったとしよう。その臓器を必要としている患者は複数おり、どの患者に移植するかによって、生み出される幸福は多少なりとも異なっている。だが、わたしたちの能力は限られているため、生み出される幸福についての微妙な違いを正確に予測できないことがある。そのため、わたしたちは複数の選択肢が同じだけの幸福を生み出すものだと判断するかもしれない。このように、どの患者に臓器を移植しても生み出される幸福の量が同じにしか見えないとき、わたしたちはどのような基準に基づいて誰に移植するべきなのか。この問いに答えるのが、幸福の分配について考察する理由である。
ところで、幸福の分配について功利主義の定式はまったく答えを与えてくれない。確かに、幸福の量が固定している(と思われる)とき、その幸福をどのように分配するかは功利主義の定理からは出てこない。そこでシジウィックは次のように主張する。
わたしたちは全体の最大幸福を追求する原理を補わなければならない。それはこの幸福を公平ないし正しく分配する原理によってである。この原理は特別な正当化を必要としない唯一の原理であるように思われる。というのも、わたしたちが確かめたように、ある人を他の人と同じ仕方で扱うことは、その人を違ったように扱うための明白な理由がないならば、合理的であるに違いないからだ。
要するに、功利主義の定理からは幸福の分配について何も答えがでてこないため、シジウィックはそれを補う原理が必要だと言う。そしてシジウィックが支持するのは、ベンサムの定式「みんなを一人として数え、だれも一人以上には数えない」に見られる純粋な平等の原理である。
ここで、次のように反論する人がいるかもしれない。それは、「功利主義の定理に公平や正義の原理を混合すれば、それはもはや功利主義ではない」という反論である。
確かに、幸福の量が一定のとき、功利主義の観点だけから幸福の分配を問題にするのは難しい。とはいえ、不平等な幸福の分配は常識に反するし、実際この点について功利主義はしばしば批判されてきた。それでは、シジウィックの立場は擁護できないのだろうか。そうではない。シジウィックが功利主義を妥当な倫理学の方法として受け入れるのは、それが三つの基本的な原理によって支持されるからであった。そして、この純粋な平等の原理とはまさに三つの基本的な原理に含まれる正義の原理なのである。シジウィックの功利主義がこのような二層構造になっていることを思い起こせば、幸福の分配に平等な正義の原理を持ち込むことは十分正当化できる。
第1章においてわたしたちは、功利主義が倫理学理論であって心理学説ではないということを確認した。このことは、シジウィックが第一原理の証明について、心理学説の立場をとったベンサムやミルとは完全に異なった立場をとったということを意味している。第一原理の証明は、これまで功利主義者が最も苦悩してきた課題の一つである。<<そこで、まずベンサムとミルが第一原理についてどのように論じているのかを見ていこう。>>
シジウィックは、第一原理の証明に先立って、わたしたちが実際にしたがっている道徳規則について検討する。わたしたちは、嘘をついてはいけないとか人を殺してはいけないといったような道徳規則を、拘束的なものとして受け入れている。確かに、こうした規則をわたしたちが受け入れているということは、その規則の自明性を確立するものではない。だが、これらの規則を受け入れている人に対し、それらの規則の権威を証明する必要はなくなる。
規則の証明不用→規則を最高原理と取り替えようとする功利主義者←自らの正当性を冷笑する必要がある。
On the present occasion, I shall, without further discussion of the other theories, attempt to contribute something towards the understanding and appreciation of the Utilitarian or Happiness theory, and towards such proof as it is susceptible of. It is evident that this cannot be proof in the ordinary and popular meaning of the term. Questions of ultimate ends are not amenable to direct proof. Whatever can be proved to be good, must be so by being shown to be a means to something admitted to be good without proof. (Mill, Utilitarianism, Chap. 1, Para. 5)
私はいまのところ、これ以上、他の諸説について議論するのをやめて、功利説または幸福説を理解し評価するため、さらにはそれを証明するため、微力をつくしたいと考える。いうまでもなく、この証明は、ふつう一般に使われている意味での証明ではない。究極目的にかかわる問題は、直接説明できるものではない。善であることを証明するには、証明ぬきで善と認められるものの手段であることを示すほかない。(ミル、1999年、464頁)
The only proof capable of being given that an object is visible, is that people actually see it. The only proof that a sound is audible, is that people hear it: and so of the other sources of our experience. In like manner, I apprehend, the sole evidence it is possible to produce that anything is desirable, is that people do actually desire it. If the end which the utilitarian doctrine proposes to itself were not, in theory and in practice, acknowledged to be an end, nothing could ever convince any person that it was so. No reason can be given why the general happiness is desirable, except that each person, so far as he believes it to be attainable, desires his own happiness. This, however, being a fact, we have not only all the proof which the case admits of, but all which it is possible to require, that happiness is a good: that each person's happiness is a good to that person, and the general happiness, therefore, a good to the aggregate of all persons. Happiness has made out its title as one of the ends of conduct, and consequently one of the criteria of morality. (Mill, Utilitarianism, Chap. 4, Para. 3)
ある対象が見えることを証明するには、人々が実際にそれを見るほかない。ある音がきこえることを証明するには、人々がその音をきくほかない。さらに、われわれの経験の他の源泉についても、同じことがいえる。同じように、何かが望ましいことを示す証拠は、人々が実際にそれを望んでいるということしかないと、私は思う。功利説が究極目的としているもの(幸福)が、理論上も実際上も、究極目的と認められないようなら、ほかに何をもちだしてみたところで、だれにも究極目的だと確信させることはできまい。
なぜ全体の幸福が望ましいかについては、達成できると信じているかぎり、事実、だれもが自分自身の幸福を望んでいるという以外に、理由をあげられない。けれども、これは事実だから、われわれは、幸福が善であること、つまり、各人の幸福はその人にとって善であり、したがって、全体の幸福はすべての人の総体にとって善であるということについて、事情の許すかぎりの証拠をもっているばかりでなく、要求できるすべての証拠ももっているのである。これで幸福は、行為の究極目的の一つとして資格があること、したがって道徳の基準の一つとして資格があることを、証明し終えたのである。(世界の名著訳、496-7)
ベンサムによれば、第一原理たる功利原理は証明することができない。ある原理が他の原理を証明し、証明されたその原理がさらに別の原理を証明するという証明の連鎖においては、どこかにその始まりがあるのでなければならない。そしてその証明の始まりにある原理については、そもそも証明する必要はないし証明することもできない、というのがベンサムの主張である。
(森本) この原理〔功利原理〕を直接証明する余地はあるのだろうか。そのような余地はないように思われる。というのも、他のあらゆることを証明するのに用いられる原理それ自体を証明することは、できないからである。証明の連鎖は、どこかにその証明の始まりがあるのでなければならない。そして、そうした証明は不必要であるのと同様に不可能なのだ。
第一原理が証明できないという点については、シジウィックもベンサムと同じ立場に立っている。
第一原理を「証明する」ことは不可能だと言って答える功利主義者もいるだろう。そして、もし証明ということでわたしたちが意味しているのが、問題となっている原理を、その原理が自らの確実性について依存し続けている前提からの推論として示す過程のことならば、このことはもちろん正しい。というのも、これらの前提から引き出される推論ではなく、これらの前提こそ真の第一原理となるであろうからだ。(ME 7, p.419)
だが、ベンサムは続けて次のように主張する。
(森本) しかしながら、どれだけ愚かであるとか、ひねくれているとかしようとも、人生の多くの場合、おそらくはたいていの場合に、功利原理にしたがったことのない人間がいるとか、これまでにいたということではない。人間構造の生まれつきの構造によって、人生のたいていの場合に、人は一般にこの原理について考えることなしにこの原理を採用している。そうでなくとも、自分自身の行為を秩序づけるために、また他人の行為を検討するためだけではなく自分自身の行為を検討するためにも、この原理を採用しているのである。
[直観が混じってるという批判をここで取り上げる]
功利主義は倫理学理論の一つである。これは「いかなる所与の状況においても客観的に正しい行為とは、全体として、言い換えるとその行為によって幸福に影響を受けるすべての人を考慮して、最大量の幸福を生み出すであろうようなものである」という理論である。「普遍主義的快楽主義」と呼べばもっと分かりやすいだろう。
シジウィックによる功利主義の定義をより鮮明に理解するために、それが端的に示されている箇所を「功利主義」から引用しよう。
この原理は正しい行為の究極目的・究極的基準として「すべての関係者の最大幸福」を、あるいは(一部の関係者の利益は、場合によっては残りの者の利益のために犠牲にしなければならないので)「可能な限り最大多数」の「可能な限り最大の幸福」を提唱する。
シジウィックによれば、功利主義の原理が正しい行為の究極目的・究極的基準として提唱するのは、「可能な限り最大多数の可能な限り最大幸福」である。後述するように、シジウィックは平均主義ではなく総和主義の立場を採る。だが、単純な人口増加が全体の幸福を必ずしも最大化しないことに彼は気づいていた。そこで彼は「増数によって享受される幸福の量を残りの者が失う幸福の量と比較考量しなければならない」と言う。これにより、単純な人口増加を促す総和主義の欠点は回避することができる。だが、シジウィックは一方で「平均的幸福が同じままだとすれば、もちろん多ければ多いほどい」と認めるが、シジウィックにとって平均的幸福の減少はわたしたちが避けるべき究極的事態ではなかった。
シジウィックは4.1.1の最終段落で幸福の分配について検討し、功利主義の原理そのものからはこの問題について全く答えを与えてくれないことを認めている。そこで、わたしたちは幸福の分配問題を解決するためには、新たな原理に訴えなければならず、たいていの功利主義者が暗黙のうちに訴えている原理が純粋な平等の原理である。これはベンサムの定式「みんなを一人として数え、だれも一人以上には数えない」において与えられているものである。
シジウィックは、この原理が特別な正当化を必要としない唯一の原理だと言っているが、その理由は「ある人を他の人と同じ仕方で扱うことは、その人を違ったように扱うための明白な理由がないならば、合理的であるに違いない」からである。これは3.1.13で述べられている正義の原理に依拠するものであろう。
[ここで、暴動を沈静化するために一人の無実の黒人をスケープゴートにすることが許容されてしまうかどうかという事例を出して考察する→おそらく許容されない。もとはH.J.マックロスキーの論文の事例]
だが、幸福と最大多数がどのようなものかについてさらに限定しなければ、これはまだ有意義な命題とならないだろう。そこでシジウィックは、まず幸福について次のように定義する。
「幸福」は「快楽」と同等のものと理解しなければならない。(中略)功利主義者は「快楽」にあらゆる満足と喜びを含め、したがって最上のものから最低のものまで、それがあるときには維持し続けるように意志をつき動かし、欠けているときには生み出すように意志をつき動かすような、あらゆる種類の感情や意識を含める。このように理解すれば、わたしたちが快楽と呼んでいる一時的な感情の総和ないし一連のそういった感情を指示する(denote)のに幸福が使用される場合を除いて、快楽を幸福から区別することはできない。
シジウィックは幸福と快楽を同等のものと理解しているが、注目すべきなのは快楽を非常に広い意味で理解している点である。わたしたちは上述の定義から、シジウィックが幸福=快楽に選好の充足を含めていたと理解すべきだろう。
グリフィンは正しくも、シジウィックによる効用の理解が心的要素(mental element)と選好の要素を結びつけたものだと分析している*17。だが、グリフィンはシジウィックのこの折衷的な効用理解には問題点があると指摘する。それは、ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』で挙げた快楽機械の事例に見られるように、わたしたちが心の状態よりも物を欲するという一見した事実に依拠するものである。だが、これは本当だろうか。同じだけの快楽を与えられるのであれば、快楽機械と現実の間に重要な違いはないように思われる。もし、現実の方をわたしたちが選好するのであれば、それは現実が現実であるということ意外に、快楽機械との間で前提としてないより大きな快楽を現実に認めているからに他ならない。
さらに、シジウィックはもう一つの限定を加える。
苦痛という望ましくないものについての認識は、功利主義者が依拠している快楽という望ましいものについての認識と不可分の付属物であり対応物であるように思われる。実際、功利主義者は常に苦痛を快楽の負の量として扱ってきた。それゆえ厳密に言えば、功利主義的に正しい行為とは、全体として最大量の快楽を生み出す行為のことではなく、苦痛に勝る快楽の最大の余剰である。ここでいう苦痛とは、同じ量の快楽に対して釣り合うと考えられた苦痛のことであり、それゆえ快楽と苦痛とは倫理的計算のために互いに打ち消し合うものである。
ここで言われているのは、快楽と苦痛が同じ基準で互いに比較可能であるということである。これは、快楽計算が可能となるための必要条件である。
それでは、最大多数にはどこまでの範囲が含まれるのだろうか。これには二重の意味がある。つまり、(1)何の数かという種類についての範囲と、(2)いつの時点の数まで含めるのかという時間的範囲の二つである。これらの問題についてシジウィックははっきりと述べていないが、功利主義者は一般に感覚的存在者一般の快楽を問題にし、
わたしたちは功利主義の立場をとることによって、常に普遍的慈愛によって動機づけられ行為しなければならないわけではない。普遍的慈愛を常に意識しながら行為することによって損なわれる幸福があるであろうし、逆にたまには普遍的慈愛を意識せずに行為することによって得られる幸福もあると考えられるからである。
人が純粋な普遍的慈善(pure universal philanthropy)ではなく他の動機からたびたび行為するなら、一般的幸福はより満足のいくように得られるであろうということを経験が示すならば、これらの他の動機が功利主義原理においてより好まれるということは理にかなっている。
ミルはベンサムの「快楽の量が等しければ、押しピン遊びは詩と同じだけ善い」という命題*18を放棄し、快楽の質の違いを考慮するのが望ましいと考えた(ME7, p.94)。「満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい」(ミル(1999)、470頁)というスローガンに代表されるように、低級な快楽よりも高級な快楽の方がよいというわけである。ミルは『功利主義論』で次のように言っている。
ある種の快楽はほかの快楽よりもいっそう望ましく、いっそう価値があるという事実を認めても、功利の原理とは少しも衝突しないのである。ほかのものを評価するときには、量のほかに質も考慮されるのに、快楽の評価にかぎって量だけでやれというのは不合理ではないか。
快楽の質はどのようにして見分けられるのであろうか。ミルは続けて次のように言っている。
それでは快楽の質とは何を意味するか。量が多いということでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか・・・・・・こたえは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。(J.S.ミル著、伊原吉之助訳『功利主義論』(中央公論社、1999年)、468-9頁)
これに対し、シジウィックは快楽の質を認めず、快楽の質的比較はすべて快楽の量的比較に還元されるという。わたしたちが追求しているのは快楽そのものである。「相愛の快楽が食欲を満たす快楽よりも質的に優れている」と言う場合にわたしたちが意味しているのは、相愛の方がいっそう快いということである。それらが、それほど快くはないが高貴だとか高尚だと言う場合、わたしたちは明らかに選好の非快楽主義的根拠を導入しているのである(ME7, pp.94-5)。
[ここで、高級な快楽を知った人が、低級な快楽についても同じぐらい十分に知っているとは限ず、それゆえ両方を知った人が質について判別できるうということはないというシジウィックの主張を紹介すべし。]
[ここで、シジウィックが快楽に質を認めない理由は、快楽と苦痛とは同じ尺度で比較可能なものでなければならないという主張にあるのかもしれない、という議論を展開すべし。]