哲学カフェの対話ってけっこう重要で、ペースにもほどよい心地があるはずなんだけど、そこらへんを経験値に基づいていい心地で進められる進行役がよい進行役ってことになるのかなと。
なぜ役所系哲学カフェは面白くないのか。多様性がないから
とくにルールを定めることもなく自然と起こる哲学対話ももちろんあるが、一定のルールのもと一定の環境下で行われる哲学対話も数多くある。哲学カフェ、子どもの哲学、、、などなど。
医療現場 政治 交渉?
物語や対話篇、描かれたものはルールに則ってる。現実はトランプのように対話にならないことが多々ある。
対話したくない人を対話の土俵に上がらせるのは?
ワールド哲学カフェ・オンライン
→ショートクリップを使って哲学カフェ
哲学カフェなどで、コミュニケーションの通行を平坦化するための負担をなぜマイノリティーの側ばかりが負わなければならないのかという問題について。
20代の頃は当時40代だった中岡先生や水谷先生の社会哲学ないし20世紀の哲学の重要性みたいなものがまったく理解できなかったししたいとも思わなかったけど、そして伝統的な哲学にばかり目がいっていたけど、いざ私が30代後半から40代になった頃からそういったものに関心をもつようになり、いまその重要性を評価するようになり、不思議なものだなあと。20世紀の哲学思想がそれまでの積み重ねの上にあるとしたら、やはり段階的なものなのかなあとか。
代表的や哲学対話は以下のようなものである
哲学カフェの10ヶ条を載せるべし。
*重要 哲学カフェでなぜキーワードながダメなのか。それは問いでなければただのおしゃべりになってしまうから。キーワードから参加者が問いを立てればまた別だけど。
私は哲学カフェのどんなところに楽しいと感じたり楽しくないと感じたりするのだろうか。
人数があまり少なすぎるのは楽しくない。同じ人ばかりが話すことになるし、話に広がりが出てこないから。どれぐらいが少なすぎるになるのかというのは難しいけど、やっぱり10人以上はいてほしいなと思う。じゃあ9人では絶対ダメなのかというとそうでもなくて、でも3人とか4人はさすがにないし、5人、6人もたぶんない。前にも人数についてしばらく考えていたことがあるのだけど、やっぱり哲学カフェにおける最適な人数は何人かという問題はなかなか難しい。