倫理学史
諸般の事情により、倫理学史をざっくり復習。将来的には個別のページにしようと思うけど、とりあえずここのページに項目をざっと足していく。
古代
- タレス
- アナクシマンドロス
- アナクシメネス
- デモクリトス
- ピタゴラス
- ミレトス学派
- アルケー(始源)
- ソフィスト
ソクラテス
- 産婆術
- エイロネイア
プラトン
- 四元徳
- 知恵(プローネシス)
- 勇気(アンドレイア)
- 節制(ソープロシュネー)
- 正義(ディカイオシュネー)
- 『メノン』
- 『ソクラテスの弁明』
- 『クリトン』
- 『パイドン』
- 『ゴルギアス』
- 『エウチュプロン』
- 『饗宴』
- 『国家』
- 『法律』
- 想起説(アナムネーシス)
アリストテレス
- 中庸
- 『魂について』(デ・アニマ)
- 『ニコマコス倫理学』
- 『トピカ』
中世
近世・近代
カント
- 超越的と超越論的の区別について
- 定言命法と仮言命法
- 格律
現代
ミュンヒハウゼンのトリレンマ
ドイツの哲学者ハンス・アルバートの術語。
- 無限背進
あることがらが正しいと言うためには根拠や証拠が必要であり、その根拠・証拠が正しいと言うためにはさならなる根拠や証拠が必要であり...といった具合に、何かを正しいと言ったり正当化したりするためには、どこまでも根拠や証拠を求め続けなければならなず無限背進に陥るということ。 - 意図的な判断の停止
1で無限背進ということに触れたが、通常はどこかで「もうこれ以上証明の必要はないだろう」という、言ってみれば「明晰・判明」だと思われるようなところへ到達する。ところが何をもって「これ以上証明の必要がないぐらいに明晰・判明」だとするのかという判断には、必ず何らかの恣意性があると言わざるを得ないだろう。つまり、どこかで「これ以上証明の必要はない」と判断した場合、それは意図的な判断の停止だとみなされるわけである。 - 循環論法
1で述べたように、あることがらが正しいと言うための根拠や証拠を求めて、さらにその根拠・証拠が正しいと言うための根拠や証拠を求めていくと、どこかで最初の事柄に戻ってくることがある。これは言うまでもなく循環論法であり、何事も正しいと言うために必要なことを言っていないということになる。